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広島駅の北口から見える「二葉山」

 二葉山と呼ばれるこの山は、広島駅の新幹線口(北口)を出ると、正面前方の先にあるJRの建物の向こう側にドンとかまえている、海抜139メートル程の低山である。広島駅からもその山頂の先が尖った仏舎利塔が見える。
 グーグルマップなどで見ればわかる通り、この二葉山は東へ行くと尾長山に続き、そのまま北側の牛田山へつながり、ちょうどコの字形に山が連なる山塊の一部で、今でこそ平和塔と呼ばれているが、私が幼少の頃は、お釈迦様のお骨の一部が収められている仏舎利、仏舎利と呼ばれる、呼び鈴のような形をしたモニュメントが、頂上の公園の中央にある。
 私の実家はこの二葉山の、広島駅に面した斜面の中腹にあり、正面は比治山、黄金山、そして宇品港を隔てて瀬戸内海が見える。実家の裏庭からは、二葉山の森の中へ通じる。

 物心着いたころから近所に限らず、徒歩で行けるところならあちらこちら放浪癖があった私は、その中でも二葉山の森を、まるで我が家の庭の一部のように徘徊していた。物心ついた頃だから保育園に上がる前から、恐らく中学生になって部活に時間をとられるようになるまで・・ぐらいは週に何日かは必ず二葉山の森の中にいた。
 テレビゲームや、外で草野球と一通りの年頃の子供たちがやるような遊びは誘われたし、一緒にやりもしがたが、「山ばかり連れていかないでほしい」と近所の遊び友達の親御さんが、私の両親に苦情を言いにくるぐらい、二葉山の森に行くことが私にとっては習慣のようなもので、恐らくとても落ち着ける自分の居場所だったのだろう。
 冒頭でも述べたように山といっても海抜139メートル程度で、山の北側の斜面は、1960~70年頃からの宅地造成開発によってほぼ住宅地として家々が並んでいるが、この二葉山は広島城のちょうど鬼門に位置しているとのことで、山を取り囲むように麓に神社仏閣が集まっている。そのため神社やお寺が管理している森林部分は手つかずで、街に近いにもかからわず、わりと貴重な自然が残っている。
 二葉山での、小学生の頃の、今でも覚えているエピソードをいくつか書いてみる。

「秘密基地」
 恐らくちょうど小学校3~4年のころだったか。実家の裏庭の塀を乗り越え、そのまま森の中へはいってしばらくすると、地面から太い木の幹と途中から太い枝が3~4本に分かれる木が生えていた。即席のツリーハウスをこしらえるには格好の木だった。
 父親が仕事で木工機械を作っていたこともあり、実家にはそれなりの量の角材が置いてあったので、それを少々拝借して、あとは鋸、金づち、釘を持っていき、同じクラスの悪友2~3人とツリーハウスを作った。
 言い出しっぺは確か自分だったと思う。基地を作ろう!という誘い文句が子供心に何か自分たちだけの宝物を共有するような感覚を覚えさせるのか、わりとすんなりと仲間はそろって、放課後連れ立って、森に行った。
 そんなに高いところは無理だったが、恐らく小学生でも登り易い木だったのだろう。ある程度の高さまでよじ登って、床を支える梁のような角材をまず4本、木に打ち付けて、それに床をセットして、あとは横の壁、そして屋根・・。とは言え小学生が放課後に作る程度だから、小屋とは言っても木の上に簡単な床と横の囲いみたいなのが木の上にある・・そんな風景が記憶に残っている。
 映画「スタンドバイミー」の冒頭にでてくる立派なツリーハウスにはもちろん到底及ばないが、それでも子供3人ぐらいは中になんとか入れる広さで、作っている最中はとても楽しかった記憶がある。完成後は、特にそこで何をしたとかあまり覚えていない。もちろん映画のように喫煙することなんてなかったが、森の中で、狭い空間を共有して、おそらくお化け話ごっこでもしたか・・。
 その後は言い出しっぺの自分が飽きたのか、一旦完成してしまうと、あまりそこに皆で行くことがなくなった。その後、自分一人で森を徘徊した時も、恐らく何度か前を通り過ぎたが、あえて気に留めなくなったのか、ハウスがどうなったのかその後は覚えていない。
 あれからもう40年以上経つ。高校を卒業して上京したので、今はもう実家は里帰りの際に、裏庭から基地があったであろう森の中の方角をを眺める程度である。でもその場所は今も覚えているし、また実家の裏庭からたどり着ける自信はある。恐らく朽ちかけてあとかたもないかもしれないが、打ち付けた古クギぐらいは残っているだろうか。

「狐の棲み処」
 先にも書いたようにこの二葉山は広島城のちょうど鬼門に位置しているので、山の周辺に神社仏閣が集まっている。
 そのうちの一つに広島東照宮がある。参道の入口の石鳥居をくぐり抜けて、長い石段を上がると、唐門と呼ばれる、お寺でいうところの山門をくぐると正面が本殿になる。
 その本殿を右側を迂回するように参拝ルートがある。今は七福神めぐりができるようにそれぞれ末社が整備されていているが、昔は小さな祠がいつくかある程度で、さらに上に通じる階段を上ると、金光稲荷神社の本殿がある。この稲荷神社は地元では「きんこうさん」と呼んで、東照宮とは区別していたが、管理は東照宮が担っているようである。
 その本殿の裏側から、二葉山の山頂にたどり着ける参道も兼ねた登山道になるわけだが、山頂付近には金光稲荷神社の「奥宮」があり、そこまでは階段の道がつづら折りに築かれている。「奥宮」までの階段脇のあちこちには、狐の祠がちょうど石の前とか岩と岩の間に絶妙に設けられてあり、その鄙びた風景が参拝者、登山者の気持ちを和ませる。
 幼少の頃に父親と散歩がてら、この階段を山頂までよく歩いた。その際に、いつも狐の祠の後ろの、岩と岩の間には狐が棲んでいる。この祠はここは狐のお家だよって知らせる目印なんだよと話してくれたことを覚えている。
 その祠がある岩の形、重なり具合が本当に小動物が棲んでいそうな空間を形作っていて、確かにちょっとのぞくとその岩陰の暗い部分から狐がちょこっと顔を出してきそうな、それぐらい子供心には神秘的で、「あぁ今はお昼だからこの奥で狐は寝てんのか・・夜になると這い出してきて、祠にお供えしてある油揚げとかお酒を食べるんだ・・」と思いを巡らせていた。
 山頂付近の「奥宮」は自分が小さい頃は、入口に小さな石鳥居があり、その先に立派なお社があった。そのお社の正面右側は、巨大な岩肌が壁のようになっていて、その窪んだところや、岩の切れ目にいくつか狐の祠がある。
 その巨石脇になんとか上へ登れる階段があり、巨石のてっぺんからは広島市内が一望できる。そのお社は、後の失火が原因で焼失してしまい、今はお社を形どった屋根と祠だけがある。

「井戸」
 その金光稲荷神社の奥宮まで続く参道の途中に、右へ折れる脇道があり、その道を辿って行くと、小さな広場に出くわす。その広場の中央辺りに井戸がある。
 今でこそ「御神井」とか呼ばれて、表札も立っているみたいだが、私が徘徊していたころは単に山の井戸、井戸とよんで、子供心に森にはこういう井戸みないな水源が一つや二つあるものなんだと思い、気にもとめていなかった。この井戸は今でもちょっとした思い出がある。
 小学生の頃、この東照宮を拠点にしていたボーイスカウトに所属していて、当時6年生だった私は、毎年5月頃に行われる夜間野営訓練参加した。この訓練は夕方東照宮に集合して、二葉山に登り、山頂近くでテントを設営して、日没後に山の尾根伝いに夜間行軍訓練をしたりする。
 その日、その夜間行軍訓練が終わった後、参加した同じ学年のやつと二人で、その「御神井」 の井戸へ水を汲みにいった。時間は恐らく夜11時を過ぎていたと思う。
 多分、お茶か夜食用の水を沸かすのに足りなくなったとかの理由だったかと思うが、野営をしているところの前の山道を少しくだると、前に話した「奥宮」があり、そこから麓の金光稲荷神社本殿までつづく参道の石段を下りていくと、左に「御神井」へ行けるけものみちに近いような細い道がある。昼間でも頭上は樹木が覆いかぶさるような感じで薄暗くて、当然、夜など真っ暗である。
 その晩は、月は出ていたか覚えてないがそんなに風もなく穏やかな夜だったと思うが、頼りは懐中電灯の明かりだけで、二人で寄り添うように、そろりそろりと一歩一歩足元を気にしながら闇の中、山道を歩いた。
 「御神井」の井戸は、 その細道を行った先の、周りを水が沁みだしで苔むした斜面に囲まれた小さな広場の真ん中にあり、口はアルミ製のフタでおおわれていて、脇にロープがついたバケツがあって、それを井戸の中に落として水を汲む。
 ようやく井戸に辿り着いついた二人、一息いれる気もないまま、急ぎ持参したポリタンクへ水を汲もうとアルミのフタを開けた時だった。急にゴワーッと広場の周りの樹々が、音を出しながら揺れてざわめきはじめて、もちろん後から思えば風かなんか吹いたんだろうけど、それこそ闇の中で、キツネのお化けとかその他山の魑魅魍魎に取り囲まれたような恐怖を感じて、二人とも親からはぐれた子猫のようにキョロキョロと首だけ360度回転させながら、怯えてその場で立ちすくんだ。
 その後、どうやって水を汲んだのか覚えてなくて、ほうほうの体で、また暗闇の山道を取って返して野営場所に戻った。いやぁとにかく怖かった。「なんか幽霊とかでなかったか」とか先輩や隊長らにからかわれたけど、あんな夜の山の中、幽霊だってそこで待っているの怖いよなと思ったが・・。

「洞窟」
 今にして思えば、洞窟とはいっても、もとは防空壕とかの跡のようなものかもしれなかったが、二葉山は西側の尾根づたいにかけて、戦時中の高射砲陣地跡の遺構がいくつか残っている。今はもう史跡に登録されているみたいだけど、もともとこの二葉山の広島駅側の麓は、戦時中、陸軍の練兵場があり、山も陸軍の管理下にあったようで、山の山頂から西へ少しいった林の中ににも軍の兵舎があった跡が残っている。
 私が小学生だった昭和50年代の後半でも、まだ二葉山の山麓は山の緑がそのまま残っているところが多く、その”洞窟”と友達同士の間で呼んでいた穴は二つあった。
 ひとつめは東照宮の境内を通り抜けて、金光稲荷神社の前をよこぎっている舗装された道路をそのまま道なりに進むと、行き止まりになったところの山の斜面にあった。入口がちょうど土砂で埋まって外から見えずらいが、その土塊をよじ登ると、目の前に暗闇があらわれ洞窟の入り口となって、自分の声がその奥の方で反響して戻ってくるような感じである。
 洞窟の天井はおそらく2メートル弱程度の高さだっただろうか。その中は長い時間をかけてかなり雨水だか地下水がたまっていて、ちょっと入口から中へ下りていくと足下にまで水が迫ってくる。その水たまりも奥のどこまで続いて、どのくらい深いのかも、とにかく中が真っ暗なため見当もつかない。
 なにやら本当に洞窟の暗い奥の方から”物の怪”でも飛び出してくるようで、毎回”探検”に訪れるたびに、少しの時間入口に立っているだけで、怖くなってきて、すぐに逃げ出した。訪れる前は、小さなゴムボートを浮かべて奥までいってみようかとか盛り上がるのだが、結局行けたのは入口までだった。
 現在、その洞窟があった場所は、Google Earthで見てみると、マンションが建っているみたいで、その工事中塞がれたか埋められたか、今は知る由もない。 

 ふたつめは、これは洞窟というよりかは”縦穴の構造物”とでも呼んだ方がいいかもしれないけど、残念なことに正確な場所が思い出せなく、かすかな記憶にあるのは、二葉山の広島駅の方に面した、鶴羽神社よりの西側の山の中だったように思う。
 その日も放課後、近所の友達一人と山中をいつもの通り”探検”を兼ねて徘徊していた。サクサクと落ち葉のかたまりの中に足を入れながら、道のない森の中の斜面を歩いていたその時、突然、目の前の地面にポカンと空いた大きな穴に出くわした。
 正方形をした穴の入り口は、おそらく2~3メートル四方だったか。地中深く垂直、縦穴になっていた。深さは小学生の目視で、約10メートル前?・・かなり深かった。側面の壁は四方ずべてに正方形の石がきれいにはめ込んで舗装されていたと思う。
 穴のふちに立ったときは、本当に吸い込まれそうな恐怖感を感じたことを今でも覚えている。友人と二人、ただ無言で穴をのぞきこんでいたけど、まだ小学生で、この穴というか構造物の謂れとか意味とかを詮索するゆとりもなく、両親や学校の先生にも、また山に行って危ないことをしていると怒られると危惧したのかお互い口止めして、誰にも話さなかった。
 以後何度も山に入ったけど、この”縦穴の構造物”には再び辿り着けず、一度だけの”邂逅”で、その後どうなったかこちらも知る由も術もない。
 先にも述べた通り、二葉山は戦時中、山頂の高射砲陣地とかもふくめた陸軍の軍事関連施設があった山で、この”縦穴洞窟”も・・う~ん・・もしかすると陸軍の貯蔵庫の一つかなにかか・・と推察してもあながち的外れでもない気がする。
 二葉山に関する散策・登山ガイドとか、その他いろいろ情報を集めてみても「太陽の岩」、「大地の岩」とかはでてくるものの(小学生のころ散々行って二つとも熟知しているけどなんでこの名前がついたのか不明)、この縦穴の構造物にかんしてはまったく出てこない。
 あれからもう30年以上経っている。恐らく普通の登山やトレッキングする人たちも迷ったりしない限りあの辺りには行くことはないと思うので、恐らく穴も枯葉や土砂で埋まってもう判別つかなくなっているのではないだろうか。本当にあれは一体、何の構造物だったのだろう・・・。 

   私がこの二葉山の山中をくまなく歩きまわっていたのは、何度かふれたように小学生の頃、年代的に言えば昭和50年初頭から60年にかけてだった。
 ちょうどテレビ朝日の川口浩探検隊シリーズが夜のゴールデンタイムの時間帯にやっていて、「ジャングルの奥地に潜む・・・・」とかのタイトルがとても子供ながら冒険心を駆り立てられて、翌日の放課後に「川口浩探検隊ごっこ」をするには、この二葉山は恰好の場所だった。
 山の中で知らない道をみつけて、この先どうなっているのだろう・・帰ってこれるかな・・と不安な気持ちもまざって探検をしていくと、知らない岩にでくわしたり、小さな沼みたいな場所にでたりして、今思い出してもその探検隊ごっこでの冒険はとても楽しかった。
 広島は実際に訪れるともっと実感できるが、ちょっと郊外へいくとすぐに山々がせまってきて、平坦な土地が少ない。そのため住宅地などを新しく開発する場合は、山の斜面を大きく削り取る感じで、山の形を変えるように造成していく。以前は駅から遠望したときは大きな山だったのが、久しぶりに帰郷してふと遠くを見たら、思わず「あっ」と声が出たほど、遠く向こうの山肌の下半分が、樹々が伐採されて茶褐色の山肌に変貌していた。
 二葉山の場合は、山麓の神社仏閣が背後の森林を所有、管理している場合が多いみたいなので、そんな山ごと形をかえるような工事とか開発はないと思いきや、二葉山トンネル(広島高速5号線事業)という二葉山と隣の尾長山をほぼ貫通するトンネル工事計画が2000年頃から始まったらしく、2018年にはとうとう山のトンネル掘削工事が開始され、先の「洞窟」の話をした辺りの景観が大きく変わっている。
 それ以外でも、駅前から牛田へ抜ける峠あたり(Google mapだと天神公園あたり)も、以前は、二葉山から峠へ通じる細い自然道があって、低い雑木林と畑に囲まれていた。途中、水の枯れない小さな水たまりがあって、春先はイモリとかヤゴがいた。クワガタをよく捕まえにいったクヌギの木も道脇にあった。秋はススキも生えて、とてものどかな場所だった。今は、ここも山の斜面ごと削り取られ平坦地となって、マンションと住宅が建っている。
 宮島が世界遺産に登録されて以降だろうか・・アジア諸国、欧米からの外国人観光客が広島にくるようになって、特にコロナ禍の前は、広島駅の新幹線ホームは大筒のようなリュックサックを背負った外国の人たちであふれかえっていた。
 駅前の二葉山の東照宮、金光稲荷神社の参道コースもガイドブックに掲載されているようで、実家の目の前の道を、二葉山頂上から下山してくる外国人の人たちを よく見かけた。
 広島駅周辺も野球場ができてから、駅周辺の再開発がどんどん進み、タワーマンションや高層のオフィスビルもできて、毎年、帰省するごとに二葉山の駅周辺の風景が変わっていく。
 地元が賑やかになって活気あふれるようになるのはとても喜ばしい反面、当たり前のように存在していた景色がだんだんと記憶の中だけになっていくことはやっぱりちょっと寂しい。

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