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「まあまあ」:中途半端な一言に秘められた可能性

私の推しの言葉は「まあまあ」です。
日本語には多様で美しい表現が溢れている中で、なぜこんな中途半端な言葉を選ぶのか、疑問に思う方もいるかもしれませんが、「まあまあ、落ち着いて。」以下に私が「まあまあ」を推す理由を説明します。

「まあまあ」という言葉は、私たちの生活を織り成す無数のグレーゾーンを適切に認識し、理解するための万能の言葉です。完全な純白と漆黒の二元論ではなく、それらの中間に広がる評価を行うための重要な手段なのです。

現代の世界は極端さが推奨される傾向にあります。すべてが最高であること、最良であることが要求される中で、「まあまあ」はその極端さに対する心地良い中庸です。この言葉は、私たちが中道を選択し、物事の全体像を見ることができるようにするツールなのです。

さらに、「まあまあ」は人間関係を滑らかに進めるコミュニケーションの鍵でもあります。意見が完全に一致することはまずありませんが、「まあまあ」と一言で、相手の意見を尊重しつつ、相違を受け入れる余地を作り出すのです。それは、他人との関係を円滑に保つための魔法のような言葉ともいえます。

また、「まあまあ」は、「和を以て貴しとなす」ことに重きを置く日本人が抱える集団主義と個人主義の間の緊張を軽減する助けとなります。私たちは個々に独自の意見や価値観を持っていますが、一方で、集団の一部としての役割と調和を保つことも重要です。この均衡を達成するために、「まあまあ」は調和を促す助けとなります。

明確な区別を避け、余白を大切にする日本人の国民性と「まあまあ」は密接な関係性を持っています。日本人には「まあまあ」の思想が骨の髄まで沁みついており、「まあまあ」無しでは生きていけません。もはや日本語の主要素ともいえるでしょう。

「まあまあ」はまた、ストレスフルな状況下でも、心の平和を保つ手段でもあります。「まあまあ」という言葉を通じて、私たちは少しのストレス軽減と自分自身に対するやさしさを見つけることができます。何かに圧倒されたとき、「まあまあだね」と一歩引いて物事を見つめ直すことで、心に安らぎと余裕を与え、新たな視点や意見、アイデアを見つけ出すための土台を作り出します。

昨今、変化が速く、先の見通しが立ちにくい不確実な世界や日本の情勢下においても、「まあまあ」はサスティナビリティの高い言葉です。他の言語、例えば英語やスペイン語にも「So So」や「Asi Asi」等似たような表現がありますが、中途半端を受け入れている日本語の「まあまあ」とはニュアンスが異なります。「まあまあ」を使い、極端な状況から自然と余白を持つことで、レジリエンスが向上します。「Sushi」や「Samurai」のように世界に広がった日本語の単語があるように、「Maa-Maa」もグローバルに広がるポテンシャルを秘めているパワーワードです。「まあまあ」は、世界中の人々が日常の中で中途半端さを受け入れ、対話を通じて理解を深める手段となり得ます。

個人的にも「まあまあ」にはいつも救われています。上手くいかなかったときには「まあまあ、やらなかったら分からなかったことだから」とプラスに捉えて気持ちを切り替えます。一方、上手くいったときでも「まあまあだな。まだ改善できるところがある」と考えることで、自然とさらに上を目指すことができています。他の人が落ち込んでいるときにも「まあまあ」と話しかけることで慰め、冷静にさせることが出来、円滑に物事を進めることができたことは数えきれません。このことからも、調子を聞かれると「まあまあ」と口癖のように言っています。私自身にも「まあまあ」は骨の髄まで染み込んでいます。外国でもどちらかというとネガティブな意味で使われる「So So(イマイチ、中途半端の意味)」を「まあまあ」の意味で連発していたら「彼のSo Soはポジティブな意味を含む」と周りの友人達から解釈されるようになっていました。

以上のように「まあまあ」は、一見すると中途半端に見えるかもしれませんが、その中には深い洞察と寛容性が含まれています。この言葉が我々の生活やコミュニケーションにもたらす影響力と可能性、それが「まあまあ」を私が選ぶ理由です。「推しの言葉」として私が「まあまあ」を選ぶ理由を「まあまあ」理解していただけたら幸いです。

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