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読書ノート『人生の踏絵』(遠藤周作)~その②~


◆はじめに

 前回に引き続き、遠藤周作の講演録『人生の踏絵』の読書ノートを書いていこう。

 前回は、講演における遠藤のユーモア溢れる語り口を紹介した後、小説を書くことについて遠藤が語った内容について振り返った。もっとも、これらは書きたかった内容ではあるものの、正直に言ってしまえば前座的な性格が強い。今回は、本の内容の中でも特に印象に残った箇所について、じっくり振り返っていきたいと思う。

 この本に収録されているのは、『沈黙』『侍』『スキャンダル』という3作品の刊行を記念して行われた講演と、「外国文学におけるキリスト教」をテーマにした6回にわたる連続講義の記録である。それぞれの講演は時期も主旨もバラバラであるが、繰り返し語られている内容も少なくない。今回の読書ノートでは、各講演を横断するテーマのうち、「愛」「悪と神の関係」の2つを取り上げ、感想を交えながら筆を進めていきたい。

◆3.遠藤周作版〈愛するということ〉

▶美しくないものを捨てない

 『人生の踏絵』の中で一番印象に残ったのは、遠藤周作が愛について語った言葉の数々であった。そのワケについては後で述べるとして、まずはそれらの言葉を幾つか見てみよう。

 講演録の中で愛に関する言葉が最初に登場するのは、『沈黙』の刊行を記念した講演の後半部分である。遠藤はここで「日本とキリスト教」という自身の問題関心について語っているのであるが、それに関連して少年時代に家庭の事情から洗礼を受けさせられたという生い立ちを紹介したことがきっかけとなり、自分に合わないものであっても背負ったものを捨てないことが大事だという話を始める。「人生を捨てない、女房だって捨てない」と、例によって奥さんを冗談の種に使った後で、遠藤は次のように述べる。

 だって、考えてごらんなさい。美しいものとか、魅力のあるものに心を惹かれるのは馬鹿でもできますけど、色あせたもの、くたびれたもの、見飽きたものに心惹かれるとか、保有し続けるとかって、才能と努力と忍耐がいるでしょう?(中略)人生すべてそうだと思うのです。人生が魅力あるもの、美しいもの、キラキラしたものではないからこそ、われわれは捨ててはいけないと思うんだ。捨てるというのは、自殺したり自暴自棄になったり、いろんな形がありますよ。そんなふうに人生を放棄しちゃいけない。

(『人生の踏絵』25~26頁)

 さらに遠藤は次のように続ける。

 私が聖書で一番好きな点は、イエス・キリストが魅力のあるもの、美しいものを追いかけて行くところが一ページもないことです。イエスは汚いものとか、色あせたものにしか足を向けなかった。当時の社会で最も卑しめられていた娼婦やひどい病気に苦しむ人などと会ってはきちんと慰めてあげた。娼婦という言葉がみなさんと縁遠いなら、人生とは日常生活などに置き換えてもいいと僕は思う。みんなの日常生活の苦しさや悲しさや煩わしさをイエスは背負って、自分の十字架にして、それを最後まで捨てなかったというところが私には非常に感動的なんだ。

(『人生の踏絵』26頁)

 この後遠藤は話が逸れたことに気が付き、「きみたちがあんまり笑うからいけないんだ」と言いながら、小説家として、自分に似合わないキリスト教というものとどのように向き合ってきたかという点に話を戻していく。しかし僕にとっては、思いがけず差し挟まれた上の話のほうが印象的であった。

 美しいもの・魅力あるものに心惹かれるのではなく、汚いもの・色あせたものを捨てずに持ち続けることが大事なのだ——

 僕がこれまでやってきたのは、ちょうど真逆のことだった。単調な日々に退屈し、苛立ち、美しいものや面白いものを求めて彷徨う。しかし心の底から満たされることはなく、「期待外れだった、大したことなかった」と内心ぼやきながら、もっと面白いものはないかと血眼になって探し歩いた。最近は探し歩くことにすら疲れ、退屈とストレスを持て余しながら、家に籠って時間を空費することが増えていた。

 遠藤の言葉は、「お前のやっていることは根本から間違っているぞ」と告げていた。そうやって、美しいもの・魅力的なものばかり追いかけるからドツボに嵌るのだ。人生は面白くない。色あせて、くたびれている。それでも人生を捨てないことが大切なのだ——「そうか」と僕は思った。そしてこの言葉を抱きしめようと思った。

 上の引用の中に「愛」という言葉は一度も登場しない。しかし、イエスが出てきたところで、これは愛の話だとわかった。なぜなら、遠藤の考えるイエスとは、神の愛・愛の神を証明することを目指した人物だからである(詳しくは、遠藤周作『イエスの生涯』を参照いただきたい)。そして実際、遠藤は別の講演の中で、キリスト教の教えと関連づける形で、上で見たような意味での愛について語っている。

▶愛と情熱・憐憫の違い

 「外国文学におけるキリスト教」をテーマにした連続講義の第3回で、グレアム・グリーンの『事件の核心』を扱った際、遠藤は同書の主人公が最後に自殺することに触れたうえで、キリスト教が自殺を禁じている理由を説明している。この中で、愛という言葉が出てくる。ここも本来の意図は愛を語ることとは別のところにあるわけだが、僕の心に深く刺さったのは、愛に関する言葉の方であった。

 つまり、重たい十字架を人生そのものだと考えるわけです。人生というのは、決して嬉しいものでも、楽しいものでも、魅力あるものでも、美しいものでもなくて、実にいやらしいものでしょ? みなさんもいろんな経験されておわかりでしょうけども、人生は汚らしいし、目を背けたくなるところがある。しかし決して、放り投げちゃいかんのだと。最後まで味わい尽くせと。それがやはり「イエスに倣いて」であり、それが人生なんだ、というのがキリスト教の根本概念であります。自殺は、人生に対する愛情がないという考えに立っている。

(『人生の踏絵』109~110頁)

 魅力あるもの、美しいものなどに惹かれるのは情熱であって、愛じゃないと。しかし魅力のないもの、色褪せたもの、つらいものを、なお捨てないということが愛だ、というのがキリスト教の考え方です。

(『人生の踏絵』110頁)

 ここで語られていることは、先に『沈黙』刊行記念の講演録から引用した箇所と概ね同じである。ただ、愛と情熱は異なるものであるという内容だけが追加されている。この点について、遠藤は後の部分でさらに詳しく述べている。そこでは、愛は情熱だけでなく、憐れみとも異なるものであると語られている。

 年ごろになって、きれいな人、魅力ある人、可愛い人に会ったら、それは好きになります。しかし、これは愛じゃないです。目の前に気の毒な人、病気で苦しんでいる人がいたら、可哀そうだと思いますよ。思わなかったら、バカか無神経ですもの。しかし、これも愛ではないです。
 愛というのは、そんな衝動ではないのです。情熱とか、憐憫の情というのは誰でも起こします。これをキリスト教の用語で、「状態であって、行為ではない」と言うんです。衝動は状態ですよね。それは善でも悪でもないけど、愛ではない。

(『人生の踏絵』115頁)

 情熱や憐れみは衝動であり、状態である。対して愛は行為である——この言葉に触れた時、僕は以前に読んだエーリッヒ・フロムの『愛するということ』を思い出した。同書においてフロムがまず述べたことは、愛は技術であって感情や運の問題ではないということであった。そして、ここでいう技術とは、「世界全体にたいして人がどう関わるかを決定する態度、性格の方向性」のことであった(『愛するということ』76頁)。

 つまり、フロムもまた、愛は衝動的な感情ではなく、持続的な態度や指針であると述べているのである。ちなみにフロムはユダヤ人であるが、長くキリスト教世界に生きた人物であるから、状態と行為の区別という考え方は突飛なものではなかったにちがいない。

 ともあれ、愛とは瞬間的なものではなく持続的なものだということが窺える。そして遠藤によれば、我々が持ち続けるべき態度とは、「魅力のないもの、色褪せたもの、つらいものを、なお捨てない」、捨てずにずっと抱きしめるというものなのである。このことも、僕は胸に刻んだ。胸に刻むことしかできなかった、とも言える。

▶遠藤とフロムの語る愛の違い

 ところで、遠藤とフロムの愛に関する議論は、全く同じというわけではなく、多少ずれる部分もある。愛を状態ではなく行為と捉える点や、現に美しくないもの・魅力的でないものこそが愛の対象になると述べる点は共通している(フロムは愛に必要な条件の1つに、他人の可能性を信じることを挙げており、現に存在している力を信じることで未実現の可能性を手放すことを戒めている)。

 しかし、フロムの議論が、愛によって孤独・不安・無力感を克服することを重視し、愛する者同士が互いの生命力を高め合う状態を描き出すのに対して、遠藤の愛に関する語りには、時に人間の弱さ・非力さというものが垣間見える。

 このことは特に、『侍』刊行記念の講演の中で、愛と憐れみの違いを説明する際、長患いの女房を持つ男のたとえ話を始めるところに現れている。

 長患いの女房がいて、外にも行けず、毎日のように「死にたい」と訴えてくる。夫も、可哀そうで仕方がない。とうとうある日、(女房は)「殺してくれ」と言った。(以下略)

(『人生の踏絵』188頁)

 この話は、夫が妻を殺すのは憐憫であって愛ではない、ということを説明するためのものであるが、僕は話の結論よりも、この夫婦の置かれた状況の方が印象に残っている。妻は病気で弱っており、夫も妻の病気を治すことができない。両者とも、現実の前に無力であり、なす術を持たない。こうした状況下でも、遠藤は愛を問題にするのである。

 おそらくフロムも、人間が時にどうしようもない不幸に直面することは十分承知していたであろう。ただ、ナチス政権の誕生とホロコーストへの歴史的反省から、不安と無力感の克服——それは力のあるものに服従し、力のない者の支配を望む心性を克服するための前提条件である——を強調しなければならなかったのにちがいない。

 遠藤の言葉を借りれば、フロムは「大説家」である。対して遠藤は「小説家」として、人間が人生のうちに直面する困難や不条理を前にどうすればよいかということを考えようとしたのであろう。

 愛に関する話が随分長くなってしまった。これは取りも直さず、〈愛するということ〉に対する僕の関心の表れであろう。

 夏以降、複数の遠藤周作作品を手に取る中で、苦しみや悲しみと共にあろうとする愛の形に幾度も出会った。僕はそれらに心を動かされた。しかしある時、自分も同じように人を愛せるようになりたいという気持ちが起こっていないことに気が付いた。そのことが心に引っ掛かり、何とかしなければと思った。フロムの『愛するということ』を手に取ったのも、こうした背景からであった。そして、フロムの議論の影響を色濃く受けている時期に、僕は『人生の踏絵』を読んだのである。

 途中で開陳した反省を踏まえると、僕の中にはそもそも愛が育っていなかったのだと言わざるを得ない。ただ、わからないなりに愛について考えたいという気持ちは強かったのだろう。そうした気持ちが、読書にも影響を及ぼしたようである。

◆4.罪びとこそが神に近付く

 さて、もう1つ、この読書ノートに書き留めておきたいことがあった。それは、悪と神の関係について遠藤が語った内容である。

 このテーマが一番はっきりと表れているのは、前節でも取り上げた連続講義の第3回である。グレアム・グリーンの『事件の核心』について論じる中で、遠藤は、この小説が書いているのは「神さまをいちばんわかるのは、聖人を除くと、罪びとだ」ということだと述べている(95頁)。

 良いこともできず、悪いこともできないような奴には、神さまがわからない。そんな奴がいたら、神さまだってどこかへ行ってしまう。つまり悪い奴というか、罪びとほど、神さまのことがわかる。逆に言えば、神さまを知るには、罪びとを知らないといけない。

(『人生の踏絵』95頁)

 これだけでは意味が取りづらいが、同じ講演の前の部分で、遠藤がモーリヤックの『テレーズ・デスケルウ』について語った言葉を合わせて読むと、見えてくるものがある。この小説の主人公テレーズは夫を毒殺しようとして失敗するのであるが、この点について遠藤は次のように述べている。

 人生に満ち足りて、この世の中は1+1は2であり、2+2は4である。これはしたらいい、これはしたらいけないと区別できるような、最も本当のキリスト教から離れている世界に生きるよりは、そこから抜け出したいという衝動を持った方がいい。(中略)聖書の中に、「汝は冷ややかにもあらず、熱きにもあらず。我れはむしろ汝が冷ややかならんか、熱からんかを願う。かく熱きにもあらず、冷ややかにもあらず、ただ微温きがゆえに、我れは汝を我が口から吐き出さん」という神の言葉があります。テレーズはなまぬるさから出て、熱い状態に一歩踏み出したのだ、と言える。

(『人生の踏絵』92~93頁。なお漢数字をアラビア数字に改めた)

 それ[注:テレーズが夫を毒殺しようとしたこと]は社会的には否定されることかもしれませんが、神は人間のどんな部分に滑り込んでくるかわからない。神が滑り込んでこない部分は、人間のなまぬるい部分なのであって、冷たい部分か熱い部分に入ってくるのが神なのです。

(『人生の踏絵』93頁)

 遠藤によれば、宗教の教えや道徳に従順であるというのは、「偽善的」で「本当の意味では神さまからどんどん離れて」いく行為である(92頁)。それは「なまぬるさ」に浸っただけで満足しているからである。そこから一歩抜け出し、「冷たい部分」か「熱い部分」に踏み出した人に、神は手を差し伸べるという。

 ここで衝撃的なのはやはり、なまぬるさの中から抜け出して良い方向に向かうだけでなく、悪い方向・罪の方へ向かったとしても、神は姿を現すと述べられていることだろう。「いかなる罪の中にも神さまを志向する気持ちが含まれており、ひょっとすると、いかなる罪の中にも神さまが当の人間を手元に引き寄せようとする罠が仕組まれているかもしれない」と遠藤は述べる(98頁)。従順に生きる人よりも、罪びとの方に、神は現れるのである。

 ここまで遠藤の言葉を引用してきたが、正直に言うと、僕はここで述べられていることの意味を本当に感得したとは言いづらい。そもそも、なぜこれらの言葉が印象に残ったのかさえ、はっきりとは掴めていないのである。

 もちろん、自分自身を顧みれば、理由は幾つか思いつく。教義や道徳に従う人より、それを犯した人の方が神に近い存在だというのが、素朴な観念に反していたから。ぬるま湯の中でだましだまし生きている自分を、無意識のうちに感じ取ったから。そんな自分は神に見放されるということに、ショックを受けたから。自分より神に近いとされる罪びとにムカついたから——しかし、どれも当たっているようで、本当に言い当てたという感じはしないのである。そもそも、僕はキリスト教信者ではないし、キリスト教の神に限らず、神さまの存在を本気で信じているわけでもない。それなのに、「お前は神さまから最も遠い存在だ」と言われた途端こうも慌てふためくのは、どうしたわけなのだろう。

 ここに挙げた問いへの答えは、すぐには出ないにちがいない。ただ、遠藤が悪と神の関係について語った内容が、心に引っ掛かったという感触だけは確かにある。であれば、たとえ説明できないものであっても、いやむしろ説明できないものであるからこそ、それを書き留めておかねばなるまいと、僕は思ったのである。

◆おわりに

 以上で『人生の踏絵』の読書ノートを締めくくりたいと思う。

 1つ前の読書ノートを書き終えた後、自分の書いているものがだんだんつまらなくなっているような気がした。一言でいえば、大学のレポートを書いているような気分になったのである。僕は別に、大学の課すレポートがつまらないと言いたいわけではない。そうではなく、提出先も採点者もいないのに、誰かに評価されることを求め、立派なものを拵えようとあくせくしている自分が阿呆らしくなったのである。

 それに比べると、今回の読書ノートはまだ、自分の気持に素直であるように思う。わからないものはわからないとしか書かなかったし、本文を要約することもなかった(もっともこれは、講演録というものの性質から来るものなのかもしれないが)。その代わり、遠藤のユーモラスな語り口も含めて、印象に残った内容は一通り書き留めたつもりである。またこういうものが書けたということに、正直ホッとしている。

 ただ、2回にわたるほど長くなってしまったのは想定外であった。これほど長い文章に目を通してくださった皆さまに御礼申し上げたい。

[今回の読書ノートで引用した文献]
・遠藤周作『人生の踏絵』新潮文庫、2019年
・フロム(鈴木晶訳)『愛するということ 新訳版』紀伊国屋書店、2019年

(2024.12.15)

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