読書ノート『イエスの生涯』(遠藤周作)~感想編~
◆はじめに
前回に引き続き、遠藤周作の著書『イエスの生涯』の読書ノートを書いていこうと思う。
正直に言うと、上の表現は的確ではない。元々この本の読書ノートは、1本の記事で完結させるつもりで書き進めていた。実際、前回の記事をアップする以前に、ノートは一通り書きあがっていたのである。ところが、なるべく丁寧に書こうと言葉を費やした結果、要約も感想も文章が長くなってしまった。それをそのまま1本の記事にして出すのは、流石の僕でもためらわれた。そのため、要約と感想で記事を分けることにしたのである。
(前回の記事はこちら)
前回の記事は、主に『イエスの生涯』の要約を載せたものであった(要約にしては長いので、「本文追跡」という表現の方が適切かもしれない)。続く今回は感想編である。思わず筆を奮って本文を辿り直したくなったこの本に対し、僕はどのようなことを感じたのか。それを言葉にしてみたい。
※前回に引き続き、文中に記載するページ数は全て、新潮文庫から出版されている『イエスの生涯』(1982年→2005年改版)に拠る。
◆感想〈1〉聖書解釈の意外性
読書ノートを書くに当たり、「この本のどこか印象に残ったのか」と改めて自問した。その結果、2つの感想が浮かび上がってきた。1つは、イエスに対する素朴なイメージとは全く違った形で、その生涯が描き出されていたことに対する率直な驚き。そしてもう1つは、人々の悲しみ・苦しみに徹底的に寄り添おうとしたイエスの姿、さらに、そのようなイエスを見出そうとした遠藤周作の姿に対する感動であった。
1つ目に挙げた、素朴なイメージに反するイエス像の提示については、要約編の中でも触れた。世界的な巨大宗教の創始者と聞けば、やはり、人々から絶大な支持を集め偉大な業績を残した人物を想像する。イエスは奇蹟を起こしたと言われたら、俄かには信じ難いことであったとしても「そういうものかもしれない」と受け流してしまう。しかし、遠藤は全く違うイエスを描き出した。奇蹟など起こせず、人々から裏切られ、「英雄的でもなく、美しくもなく」(172頁)最も惨めな死に方をした無力なイエスを描き出した。ここまで意外なイエスの姿を前にしたら、驚かずにはいられない。
それだけではない。遠藤は聖書における主要なエピソードについて、それぞれの叙述がどのような意味を持っているのかということや、その背後にどのような出来事があったのかということを、丁寧に(かつ大胆に)説明している。これらもまた、素朴なイメージを覆す内容を多く含んでいる。
例えば、上でも触れたイエスの奇蹟の問題について、遠藤は次のように述べている。——聖書には、イエスが奇蹟によって病の治癒などを行う姿を描いた「奇蹟物語」と、人々のみじめな苦しみをわかち合う様子を描いた「慰めの物語」という2種類の物語が登場する。このうち前者は各地に残るイエス伝説がもとになったものであり、後者はイエスの目撃者の記憶をもとに書いたものであろう(66頁)。しかし、ここで重要なのは「イエスが実際に奇蹟を行ったか、否か」を問題にすることではない。「奇蹟物語」が「人々がイエスに結局は愛ではなく、徴と奇蹟しか求めなかったという悲しい結末を予想させる」ことのほうである(68頁)。
このように、遠藤は聖書の主要な部分について、何が事実であり、何が創作であるのかを読み解いていく(文中では明言されていないが、遠藤が「奇蹟物語」を〈創作〉と捉えていることは明らかである)。しかし、遠藤は創作された部分を、事実でないからという理由で切り捨てようとはしない。そうではなく、聖書に書かれたそれぞれの物語が何を意味し、示唆しているのかというところまで解釈するのである。この丹念な作業によって、聖書は字義的に読まれるフラットな文章であることをやめ、様々な要素が組み合わさった立体的な姿、新たな装いでもって、我々の前に現れるのである。
他にも幾つか例を挙げておこう。例えば有名な最後の晩餐について、遠藤は、それは数々の名画が描いたようなイエスと弟子だけの静かな食事ではなく、救い主来臨の予感に熱狂した群衆が押し寄せ、イエスの言葉を待つ中で行われたものだと述べている(161頁)。晩餐で語られたイエスの言葉は、弟子だけに向けられたものではなく、群衆に向けられたものでもあったというわけである。前回の記事の中で、最後の晩餐におけるイエスの発言に人々が幻滅したと書いたが、これは遠藤の解釈に拠らなければ想像しえない状況にちがいない。
イエスと弟子の関係についても、円満な師弟関係ではなく誤解に満ちた複雑な関係だったと遠藤はみていた。弟子たちは民族指導者を求めてイエスに付き従っただけで、愛の大切さを説く師の言葉をよく理解していなかった。おまけに、師が逮捕されるや逃げ出すような弱虫だったというのである。さらに注目されるのはユダに関する記述である。ユダと言えば、最後の晩餐の後にイエスを裏切り祭司らの手に引き渡した人物であるが、遠藤は彼を、師の真意を見抜いていた唯一の人物、そのうえで愛よりも現実的な効果を重んじるよう師に箴言しようとした人物として描き出している(139~141頁)。
このように、『イエスの生涯』には、イエスや聖書に関するイメージをガラッと変えてしまうような記述がたくさん出てくる。しかも、それらは決していい加減に書かれたものではなく、数々の文献を紐解き、そこへ遠藤の想像力を、いや、遠藤にとっての〈真実〉を希求する力を加味することによって描き出されたものなのだ。僕はそれらの記述から、中途半端な理解が覆される痛快さと、遠藤の想像力の逞しさと、〈真実〉を追い求める粘り強さを感じた。「こんな解釈ができるのか!」「ここまで考え抜くものなのか!」それはまさに驚きの連続であった。
しかし、斬新な解釈に対する驚きだけでは、『イエスの生涯』はそれほど深く刺さる作品にはならなかったにちがいない。重要なのはやはり、全ての人々の悲しみ・苦しみに寄り添う「永遠の同伴者」イエスが描かれていたことである。
◆感想〈2〉悲しみ・苦しみに寄り添う者がいるということ
イエスは辛く苦しい生活を送る人々をその目で見てきた。そして、彼らの不幸は、貧しさでも病気でもなく、誰からも大切にされないこと、愛されないことによる孤独と絶望から来るのだと考えた。だから、神は愛を注ぐために在ると信じた。自らも人々の悲しみや苦しみを感じ取り、共に悲しんだ。
しかし、愛は富をもたらすこともなければ、病を癒すこともない。現実的な効果を求めながら苛酷な世界に留め置かれる人々の姿に、効果をもたらすことのできない愛の無力さに、イエスは苦悩した。それでも彼は愛の重要性を信じ続けた。敵意や軽蔑を向ける者さえ愛そうとした。そして最後に、全ての人々の悲しみ・苦しみを背負うために、最も惨めな形で、辛く苦しい形で、自らの命を捧げることを選んだのである。
要約編の後半で、最後の晩餐を終えたイエスが、間もなく訪れる自身の死への不安と闘う場面を引用した。あれは作中全体を通しても極めて劇的なシーンの1つだと思う。僕はどうしても、要約編にあの一節を入れたかった。
ここまでして人々の悲しみや苦しみに寄り添おうとした人物がいた。悲しみや苦しみを共に感じ、受けとめようとした人物がいた。それはどれほど心強いことだろう。
悲しみ・苦しみを経験しない人はいない。もちろん、その原因は様々である。置かれた環境の劣悪さかもしれない。偶然起きた事件・事故かもしれない。かつての自分の過ちかもしれない。今なお正すことのできない己の短所かもしれない。容易には掴めぬほどの理想の大きさかもしれない。不本意な生き方を甘受していることかもしれない。いずれにせよ、人は悲しみ、苦しむ。そんな我々にとって本当に必要なのは、辛い感情を紛らせてくれる気晴らしでも、弱い自分を罰する者でもなく、悲しみ・苦しみをあるがままに受けとめ、傍にいてくれる存在ではなかろうか。
イエスはそうした存在であろうとした。誰も真似できないような勇気と覚悟をもって、そのような存在になることを目指した。その姿に、僕は、自分という存在が底の底から持ち上げられるような気がした。
もちろん、「永遠の同伴者」イエスは、イエスの実像を映し出したものではなく、遠藤が〈真実〉を求めた果てに描き出したイエスの姿である。ここでいう〈真実〉とは、ある人が自らの「信仰所産」として「心の底から欲した」ものの姿である(147頁)。真実は事実そのものではない。だから、永遠の同伴者であろうとした人物が本当に存在したのかは、僕らにはわからない。それでも、描き出されたその姿に感動したということが、本物の経験であることに変わりはない。
そして、僕は同時に、イエスを永遠の同伴者として描き出した遠藤周作にも、同じくらいの感動を覚えるのである。全ての人々の悲しみ・苦しみに永遠に寄り添い、悲しみ・苦しみをわかち合う存在を求めた人物がいたということ。その存在を克明に描き、我々の前に見せてくれた人物がいたということ。それもまた、大きな心の支えになる。
もしかしたら、遠藤は自分の信じるものの姿を、心の底から欲したものの姿を、描き出しただけなのかもしれない。しかし、人はそれを自分の心の内だけにしまうこともある。遠藤はそうではなかった。自身が求めてやまなかったものの姿を、我々と共にあり共に悲しみ苦しむ者の姿を、言葉に書き留めた。のみならず、本という他者の目に触れる形で残した。僕はそこに、遠藤周作という人の「やさしさ」を見る思いがする。
『切支丹の里』がそうであったように、『イエスの生涯』もまた、悲しみや苦しみの絶えない現実を生きる人々にとっての救いをテーマにした作品であった。このような作品が世に出ていて、手に取れる状態にあるということ自体、1つの救いなのではないかと僕は思う。
(第250回 2024.10.14)
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