【最終章】北国の空の下 ー 週末利用、自転車で北海道一周 : 再び、北国の空の下(後編)
《最終章 ここまでのあらすじ》
週末や有給を利用して関東からロードバイクを輪行し、つぎはぎの北海道一周を終えて4年。転職し移住した京都での暮らしに息苦しさを覚え始め、また間もなく還暦を迎える年にもなり、これからの生き方のことを考えていました。
かねてからセカンドキャリアとして念頭にあった日本語教師の道へ進むことに決め、退職を申し出たのが2024年5月末。もともと地域社会での多文化共生といったことへの関心からこの仕事を志したので、大都市圏ではなく地方の学校で職を得たいものだと考えていました。
わたしのような還暦間近かつ未経験のおっさんを雇ってくれる学校があるものだろうか?というのがそもそもの不安としてありました。しかし、日本語教師は人材不足の業界であり、特に養成機関のない地方では確保が難しいそう。問い合わせてみると、年齢や経験に関わらず審査してくれるという学校が多く、この点は案ずるより産むが易しでした。
これまで自分が旅して、その魅力に惹かれた町はいくつもあります。また多くの自治体が移住支援メニューを用意しています。昨年来、何回か移住フェアを覗いて、色々な自治体の話を聞いてもいました。
ジョン=フォード監督「静かなる男」の舞台となっているアイルランドの小村、イニスフリーを、わたしはよく思い浮かべていました。メインストリートが一本だけの小さな村。しかしそこには海を見下ろす古城や、鱒が踊る渓流や、低い石垣に仕切られた牧草地、そして庭にアイリッシュローズが咲き乱れる懐かしい家がある。皆、少し変わったところがある登場人物は愛すべき人ばかりで、悪人は一人も登場しない。そこへ、幼い頃に米国へ渡ったジョン=ウェイン演じる主人公が一人帰郷し、村人との交流を重ねていきます。
そんな、風来坊が最後に腰を落ち着けるべき理想郷を、わたしは追い求めていました。
様々な土地の魅力に触れながらも、最後にわたしの脳裏に浮かぶのはいつも、宇宙にまで届きそうな北国の空でした。ある夜、夢の中に現れた、想いを伝えることもなく終わった学生時代のバイト仲間の面影にも、また誘われたようでした。
以前から特に気になっていた北海道の日本語学校から、内定通知が届いたのは7月下旬。その瞬間、何の迷いもなく、北海道へ戻ることを決めました。
▼ この記事の前〜中編はこちらです。
◆ The Journey North
最終出勤日の夜。京都から新幹線で東京へ向かい、深夜に穴守稲荷のホテルへチェックインしました。翌朝の旭川行きフライトに乗るためです。
翌日は5時半にチェックアウトして羽田空港へ。夏休み真っ盛りの旭川行きの機内にスーツ姿はわたし一人。
1時間半後、不安定な大気のおかげで、宇宙にまで届きそうな蒼空ではなく厚い灰色の雲の下に、パッチワークの風景が広がりました。
空港でレンタカーを借り、東川町へは約12キロ。気合いを入れれば歩ける距離だな、などと考えニヤニヤしながら、ジェットコースターのような起伏を越えて走ります。
新たな職場である日本語学校へ挨拶に伺う時刻までに少し余裕があったので、町の東郊にあるキトウシ山へ足を運びました。山麓には公園とキャンプ場、さらに「きとろん」という隈研吾氏の設計による真新しい温浴施設があります。東川には隈研吾建築設計事務所がサテライトオフィスを構えています。町民は500円で入れるとのこと。クルマを買ったら、きっと通い詰めてしまうことでしょう。
さらに登ると、町を見下ろす楼閣がありました。平原に広がる東川町は、まっすぐな道が縦横に伸び、水田が広がっています。東川米は近年、優良米として名が知られるようになっています。
ー ここが新天地。
長年の望みを実現できたことに胸がときめき、自然と笑みが溢れました。
昼ごはんのあと、新たな職場への挨拶へ。町の中心の交差点にある昔の小学校。かつては校庭だったという広い芝生の向こうに2階建ての白い校舎。隣接するのは隈研吾氏の設計による図書施設を核とした新しい建物。足を一歩踏み入れると木の香が漂い、広い窓に面した席では大勢の留学生や高校生、中にはリモートワークと見られる若者も、パソコンや教科書に向かっていました。案内してくださった校長先生によると、夜9時まで開館しており、窓際の席は飲食も可能なので、ここで勉強する時間を好む学生は多いそう。
こんな環境で働き、生活できることへの期待に胸が膨らみます。
いつの間にか驟雨が通り過ぎ、しっとりとした空気の中、ひとまず東川をあとにしました。
今宵の宿は旭川市内。しかし、日没までまだ時間があるので、牧草地の中のダートに迷い込んで右往左往しながら、美瑛へ。
北西の丘は、白いそばの花に埋め尽くされていました。
長年夢想していたこの土地での暮らしが、本当に、現実のものになった…
一日中、笑みが溢れるのを止められませんでした。これほどまでに幸せな1日は、もう何年もなかったように思います。
翌朝、アパート紹介を依頼してあった不動産会社の車で、再び東川へ。
東川への移住を望む人は多いが、目下最大のネックは賃貸住宅の需給逼迫。そもそも物件数が少ない上、移住希望者があまりに多く、すぐに埋まってしまうそうです。幸い、今回は4部屋を内覧できたのですが、昨日挨拶に伺った先でそのことを話すと「え、そんなに空いてましたか」と驚かれる始末。
その4物件も、2階の部屋は残念ながら空いていませんでした。北海道では下階の暖気の恩恵を受けられる2階以上を選ぶのが定石ですが、致し方なし。1階の方が自転車の出し入れが楽ではあるので、ここは妥協。
窓から見える草地や白樺の雰囲気が良い新築物件にほぼ即決。
旭川へ戻り、午後は初めての旭山動物園へ。以前、札幌で行われた小菅正夫・元園長のトークセッションを聴きに行き、著作にサインして貰ったことがあります。しかし現地訪問は初めて。
今日案内してくれた不動産仲介会社の方も、また昨夜飲みに行った店の店員の女性も、旭山動物園は何回行っても楽しいと話していました。地域の誇りなのでしょう。
翌朝、新千歳空港へ移動して、京都への帰路に就きました。
◆ 海を渡る転居のリアル
夢見心地の北帰行のあとには、リアルな現実が待っていました。
京都から北海道へ、遠距離かつ海を渡る引越し。必然的に、海上輸送もしくはコンテナ輸送を伴います。
しかもわたしは、ミニマリストの対義語は何というのか知らんが、かなりの物持ち。自転車だけでも5台。本は相当量を処分したとはいえ、小さな書店が開けそうな物量。服も然りで、かつて仕事のストレスを大人買いで発散していたツケが回ってきています。「古着deワクチン」で2パックほどを未来の世界のため(←自己満足)送り出しました。
せっかくの夢の有休消化を荷造りに費やす気はさらさらなく、引越しは楽々パックで。荷造りの時間は他のことに使いたい。
エアコンの移設費用まで含めると、見積もりを取った3社全て、費用は7桁に達しました。そこからの価格交渉を重ね、こちらも段ボールは新品じゃなくてもいいなど譲歩したりして、まあ何とか予算内に収めました。
転居後はクルマも買わなきゃならないし、冬底靴やら何やら長い冬に向けた出費も嵩むし、家計は大変であります。
4年前に京都へ越してきたときは、転職先から費用の一部補助があり、さらに雇用保険の再就職手当も受給できたので、楽々パックでの引越し費用に加え、エアコン2台を購入したうえ冷蔵庫と洗濯機を買い替える費用までカバーできたものでした。今回は、そのような恩恵なし。それは承知でこの道を選んだのだけど、涙が出ます。
何はともあれ引越し業者と日程を確定させた上で、ダイビング器材を詰め込んだキャリーバッグを転がして、憧憬のモルディブへ。9月になっても猛暑が収まる気配のない京都へ戻ってからも、何十年ぶりかでソロキャンへ行ったり、ブロンプトンを連れて中国地方を旅したり、上京して敬愛するマーカス•ミラーのライブで熱くなったり… そんなこんなで退職金は銀行口座に振り込まれる前に綺麗さっぱり使い果たして、9月下旬、わたしは京都をあとにしました。
◆ 再び、北国の空の下
新たな勤務先では、10月から新学期が始まります。正式採用は10月1日からですが、荷物を解く間もなく引越しの翌日から出勤し、新学期の準備に取りかかりました。
目覚めてカーテンを開けると、そこには隙間なく密集する家並みではなく、白樺の梢の向こうに大雪山のたおやかな山容が横たわっています。キッチンには夥しい数の段ボールが積み上げられており、料理などできる環境にないので、前夜にコンビニで買っておいたパンと惣菜で簡単な朝食を済ませ、戸外へ。
目の前には広大な田園地帯が広がり、10キロ以上先にある旭川の市街地まで見渡せます。
道路境界線ギリギリまでコンクリート塀が迫り出し、路肩には電柱が立ち並んで、傘を差したら通れないほどの狭さだった京都の三条通りと、東川の通勤路とは雲泥の差。逆走してくる電動ママチャリに朝からブチ切れることもありません。というか、そもそも自転車は極めて少なく、生活の足はクルマ。そのクルマにしても絶対数は少なく、路線バスとカーチェイスを繰り広げる必要もなし。
そんな道を、ブロンプトンのペダルを踏んでの通勤が楽しみになりました。通勤といっても職場までは1キロ弱。気合いを入れずクルクル回しても3分程度で到着します。
都会でのサラリーマン生活は、仕事とプライベートを明確に分け、メリハリをつけるのが当たり前でした。ここでの暮らしはその境界線が極めて曖昧。しかし、そのことがストレスにならず、むしろその関係性が心地よい、という移住者の話を何かで読んだことがあります。「ここで暮らしていたら、個人情報保護法なんて有名無実ですよ」と、職場の先輩が笑っていました。住処はもちろんのこと、家族構成、子供の名前まで、職場の中では極めてオープン。スーパーへ行ってもコンビニで買い物をしても、必ず留学生がバイトしているので、その気になれば夕食のメニューまで校内に知れ渡ってしまう。成人誌の立ち読みなんて絶対できません。
町内には食品スーパーが2軒、セブンイレブンとセイコーマートが各一軒、またツルハとコメリもあって、日常的な買い物に不便はありません。強いて言うなら100均がない。もっとも、これも東神楽のアルティモールまでクルマで15分ほど走れば済む話。
ちょっと困ったのがクリーニング。わたしはワイシャツだけは必ずクリーニングに出しています。襟や袖口の汚れが気になるから、というのは建前で、要はアイロンがけが面倒くさいのです。
越してきてから2週間ほど経って、そろそろ職場へ着ていくものが底を尽きかけ、10着ばかりのシャツをブロンプトンのフロントバッグに詰め込んで、わたしが知る限りでは町内唯一のクリーニング店へ持ち込みました。京都でも、その前に暮らしていた川越でも、仕上がりは概ね翌日の夕方。明日は仕事の後、忘れずに引き取りに来ないと、明後日に着るものがなくなります。
初老の店主は、昔ながらの複写式の伝票に品名と価格を一つ一つ記入し、ミシン線で切り取って渡しながら、さらりと言いました。
「仕上がりは1週間後の夕方ね」
…自分の物持ちの良さを褒めてあげたくなるなど、滅多にないこと。帰宅するなり、来春まで着ないつもりだったリネンのシャツや、サイズが窮屈だったり着古して襟がひけていたりで放置していたシャツを、クローゼットやら未開封の引越し荷物やらからかき集め、ボタンを付け直し、黄ばみが気になるものは漂白剤に漬け込みました。
大雪山の伏流水に恵まれた東川は、全国的にも数少ない、上水道がない町です。アパートや職場では、貯水タンクを経由するためクオリティは若干落ちてしまいますが、生ぬるい琵琶湖の水に馴染んだ身には十分過ぎるほどおいしい。さらに町内の飲食店や神社の手水鉢で飲む水の喉越しときたら、もうたまらない。
中硬水に分類される東川の水はコーヒーに最適とのこと。人口8千人の町にしては随分とカフェやベーカリーが多いのも頷けます。
スーパーに並ぶ生鮮食品の値段は、関東や関西と比べても、さほど安い印象はありません。しかし地元で採れた農産物が豊富に並びます。さらに、この地域の米の品質は折り紙つき。一度東川米を食べたら、もう他の米は食べられない、と語る人にも何人か出会いました。
10月のある日、町内で開かれたあるイベントに同僚が誘ってくれました。町内で農薬や化学肥料不使用の米づくりをされている農場の新米を、地場の野菜やジビエと共に味わうイベントです。その農場のご主人の隣席にたまたま座ることになって色々な話を伺い、大地の恵みを頂いている、という想いを強くしました。新米のおいしさは言うに及びません。お焦げをおかずにお代わりできるほど。
小さい町で外食産業が少ないことなどもありますが、これほどおいしい水や食材に恵まれている土地で自炊しないのはもったいない、と、かなりまめに料理するようになりました。
ピーター•メイルが、そのエッセイ「南仏プロヴァンスの昼下がり」の中で、いわゆるフレンチパラドックスについて持論を述べています。曰く、フランス人に健啖家が多いにも関わらず肥満や成人病の少ないのは、ワインに含まれるポリフェノール効果だなどと言われる。しかし、そんな単純な理由ではないだろう。第一に、米国などと比べて、食品や飲料に含まれる添加物がはるかに少ないはず。第二に、土地の風土が生んだ鷹揚として急がないプロヴァンス人気質。
わたしの体調にも明らかな変化が出るまでに、さほど時間は要しませんでした…京都に暮らしている間は、便通があまり良くないことが多々ありました。実家への帰省中は快便なのに京都へ戻ると間もなく下痢気味になることも多くありました。文字通り「水が合わない」としか考えられなかったものです。
東川で暮らし始めて間もなく、そのようなことはなくなり、快食快便の日々が続くようになりました。湯を沸かすとポットが真っ白になるほどカルシウムやマグネシウムを含む水のおかげか、日々食卓を彩る新鮮な食材のおかげか。それとも、伸びやかな町や溶け込みやすい職場のおかげでしょうか。
移住者が半数を占めるこの土地では、よそ者が疎外感を味わうこともなく、自分が望む人生を生きていけるような気がします。
10月なかば、よく晴れた週末の昼下がり。
わたしはスペシャライズド•ルーべに乗って、就実の丘を目指していました。
就実の丘へのオーソドックスなルートは、旭川空港の南端から延びるジェットコースターのような道。しかし、これはインスタにもよく登場するメジャーな道で、地元民になった身としてはあまり面白くありません。
実はその前週もルート開拓を試みて、見事、丘陵地のダートに迷い込みました。森のクマさんに出会いませんように、とビクビクしながらgoogle mapで見当をつけながら走るも、道はやがて熊笹の中へと消え、結局は元来た道を引き返す羽目になったものです。ただ、牧草地と針葉樹林に一直線の道が伸び、かなたに旭川の市街地を望む風景はなかなかのものでした。
これに懲りて、今回は予めルートを検索して走り出しました。
忠類川を渡って南下。昔の開拓集落と思しき場所から渓流に沿って走っていくと、路面はどんどん荒れてゆき、やがてグラベルに変わってしまいました。両側の森は鬱蒼として、いつ何が登場してもおかしくない。こんな場所でリム打ちパンクなど御免被りたく、急坂では自転車を降りて曳いたりしながら、サドルの下に下げた熊鈴を鳴らして慎重に進むうち、道は開けた牧草地の中へ。
前回迷い込んだのもこの周辺でした。秋空の下に旭川盆地の展望が広がっています。
グラベルの後には滑りやすいコンクリート舗装の急な下りと登り返し。これはMTBで来るんだったと後悔。
しかし、登り切ったところにはゆったりとうねる広大な農地が広がり、その向こうには大雪山が陽射しを浴びて横たわる、ご褒美のような風景が待っていました。
ここまで来れば、就実の丘はもうすぐ。
到着した丘の上からは、大雪山、トムラウシ、十勝連峰など、カムイミンタラを取り囲む峰々を見渡すことができました。谷を隔てて美瑛の北西の丘の展望台が見えます。
この山と丘と森の風景を眺めながら、ここで一日中コーヒーでも飲みながら過ごしたいところ。現に、初老の男性が何人かキャンプ用の椅子を並べて談笑しています。
本当に、また北海道へ戻ってこられたのだなあ、と実感し、今、自分がこうしてここにいられることへの感謝で、胸がいっぱいになります。
秋の日はつるべ落とし。さらに、日没後は一気に冷え込みますから、あまり遠くへは走れません。でも、三愛の丘までは行ってみよう。
辺部川へ下り、美瑛坂を登ります。ふと顔を上げると、黄色い花に覆われた丘の上に、旭川空港へ着陸しようとしているJAL機が浮かんでいました。
美瑛の市街地を抜けて坂を登り、三愛の丘へ。
これからはいつでも、この日本の宝のような風景の中を走ることができます。
そして12月。カラマツやカエデの鮮やかな紅葉の季節が過ぎ、カムイミンタラは根雪に覆われました。
慣れない仕事に追われる日々が続き、職場以外の地域のつながりを作る余裕はまだ生まれず、旭岳ロープウェイすらまだ乗っていません。行きつけの呑み屋くらいはできたけど、この街に根を下ろしたとはまだまだ言い難い。
でも、静かな夜更けにちょっと酔いを覚まそうと外へ出れば、上空は満天の星。星明かりはこんなに眩しいものだったのか、と思わせるような強い光が、澄み切った大気を通して降り注いでいます。この美しい大地で暮らせることの幸せが実感されます。
夏の夜に夢の中に現れた面影の中の彼女のことも、時々胸をよぎります。いつの日か、カムイミンタラの奇跡が届き、もう一度逢える日が来たらいいな、などと…
しかし今は、記憶の中の残像や想像の中の未来より、自分がこうしてここに在ることが全てであり永遠であると感じられます。
わたしのイニスフリーは、北国の空の下にありました。
帰ってきて、本当によかった。
🔶 🔶 🔶
最後までお読み頂いて、ほんとうにありがとうございました。
noteでは主に旅の記録を綴っております。ロードバイクで北海道一周した記録のほか、ブロンプトンを連れてのローカル線の旅や、もう一つの趣味であるスキューバダイビング旅行の記録、また海外旅行のことなども書いていきます。宜しければ↓こちらもご笑覧下さい。