北国の空の下 ー 週末利用、自転車で北海道一周【37】13日目 初田牛〜厚岸② 2016年5月5日
朝方の濃霧は上がり、青空が広がりました。
しかし、風はますます烈しさを増していきます。
さらに、持病の頚椎ヘルニアが、じわじわと痛み出しました。
◆ 頚椎ヘルニアとの不本意な付き合い
頚椎ヘルニアを発症したのは、この旅の3年前(2013年)、インドネシアに駐在中のこと。
経験者はお分かりと思いますが、頚椎ヘルニアの痛みは、神経を蝕まれるような、まるで自分がポンコツになってしまったかのような辛さを伴います。
この時の症状は、
⚫︎首の右側の付け根に鋭い痛み。
⚫︎右腕の上腕部、及び肩甲骨に、締め上げられるような神経性の強い痛み。
⚫︎右腕を普通に下げた姿勢が痛くて耐えられない。これは立っていても座っていても同じ。
⚫︎横になっていれば多少楽だが、仰向けに寝ることができない。痛む腕を上げて頭を高くしたり、或いは横向きなら何とか我慢できる。
私のもう一つの趣味であるスキューバダイビングで、水中から浮上した数十分後に、このような痛みに襲われたので、ついに潜水病をやっちまったか、と最初は焦ったものです。
再圧チャンバーを備えた現地の病院で2回ほど治療を受けるも、一向に良くなる気配がなく、別の病院の整形外科を受診。
MRIの結果、頚椎ヘルニアと判明しました。
医師には「手術を勧める」と言われました。しかし、新興国での首の手術などなるべく避けたく、ネックカラーを装着して激痛を誤魔化しながら過ごしました。
ネックカラーを着用すると、頭の重みが分散され、髓核がはみ出している患部の負担が軽減されて、日常生活や普通の事務作業ならば何とかこなせるのです。
この時に、牽引なり何なり、きちんと治療すればよかったのかもしれません。しかし、そのような医師からの指示はありませんでした。
発症から1ヶ月半ほど経過し、一時帰国の機会があったので、日本の病院にレントゲンやMRIの写真を持参(インドネシアでは、これらは患者にくれるのです)。本当に手術が必要なのか、いわゆるセカンド・オピニオンが欲しいと思ったのです。
「ああ、確かにちょっと(ヘルニアが)出てますねえ」
30代と思われる、激務に疲れた様子の医師が言いました。
「でも、これで切れって言われたんですか?」
医師の説明によると、日本では保存療法が一般的で、手術するのは、字が書けない、箸が持てない、と言った状態にまで進行してしまった場合に限られるそう。
「3ヶ月ほど時間はかかりますが、痛みは和らいでいきます。カラーもそろそろ外した方がいいですよ。首の筋肉が凝り固まってしまうから」
事実、その後間もなく、痛みや痺れは治まっていきました。
当時の記録を見ると、発症の2ヶ月後にはロードバイクを再開し、60Km程度は走っていました。今思えば、再び悪化させる危険が大きく、もう少し落ち着くまでは、こんなことしちゃいけないのだけれど。
頚椎ヘルニアはこれで完治したわけではなく、その後も神経痛や軽い痺れが時折現れ、2~3ヶ月続いて治る、ということが繰り返されました。
ただ、いずれも最初のような激痛ではなく、ストレッチやマッサージで宥めながら日常生活を送ることが可能なレベル。
自転車にも問題なく乗っていました。
この年は、3月になってから、この1年ほど収まっていた痛みが再発し、左腕の上腕部に引き攣るような痛みが出たり、痺れたり、手のひらに神経性の痛みが出たりしていたのです。頚椎ストレッチで一旦は収まるが、やがて再び痛みや痺れが出てきます。
空を見上げるような格好は特に頚椎の継目を圧迫するので、痛みが出やすい。普通にブラケットを握るフォームでも辛い。首を前に倒したり、左腕を回したり、肩甲骨を持ち上げたりしながら走っているのです。
◆ 霧多布湿原を走る
さて、霧多布には、有名な湿原や霧多布岬のほか、夕日が美しいというアゼチ岬、さらに温泉もあります。日程が許せば一泊したいところでした。もっとも、湿原に花が咲き乱れるのは7月になってからであり、今目に映るのは枯れたヨシばかり。
霧多布湿原は、今から約6000年前、地球温暖化によって極地の氷山が溶け、海水面が上昇して、内陸への海水亢進があったことにより形成されました。当時は今の釧路市街地も内湾状の海だったそう。その後、寒冷化が進んだことで海岸線は再び後退したが、霧多布をはじめ多くの湿原や沼地が道東に残されました。この辺のことは、前日に訪れた釧路市立博物館の展示物にも説明がありました。
▼ 霧多布湿原について
▼ 釧路市立博物館
「温暖化、温暖化って言うけど、まあ、大昔に戻っただけって人もいるよねえ」と、ゆうべ飲みに行った居酒屋の大将が笑っていました。
航空写真を見ると、その海水亢進によって海面下になったエリアが一目瞭然なのが面白い。地質学的に専門的なことは判りませんが、海岸線の湾曲に沿った形で三日月状の沼が幾つも内陸に形成されています。
▼ google mapで見る霧多布湿原
そしてまた、霧多布岬も昔は島だったのが、砂州が形成されて本土と陸続きになった陸繋島なのがよくわかります。落石岬と同じような形。そして、砂州上に町が形成されているのもまた同じ。もっとも、その砂州の根元に運河が掘削され、霧多布は今ではまた島になっています。
その運河を渡る橋のたもとに、今日初めて出会う信号機がありました。ここで左折。
◆ 霧多布岬へ
それまでの向かい風から束の間解放され、霧多布の市街地へ入っていきます。意外に、と言っては失礼にあたるが、霧多布の市街地は広がりがあり、メインストリートには数軒の飲食店もありました。もっともまだ時間が早いので、どこも店を閉じています。通りに人影がないのは、これまで駆けてきた町と同様。
街並みを抜けると、道は断崖の上へ登り、両側に海が広がるかつては島だった台地上を、岬へと続いています。
道が行き止まりになったところに駐車場があり、そこから岬の突端までは車両進入禁止。
サイクルシューズをエスパドリーユに穿き替え。この春新調したルーベのペダルは、スピードプレイを装着しています。今回のようなツーリングではSPDペダルに取り替える方が何かと便利ではあるのですが、その一手間が面倒で、結局そのまま来てしまいました。したがって、こういう歩くポイントや輪行中は、いちいち靴の穿き替えが必要なのであります。
風の強さが、のっぴきならないことになってきました。ここは本土から突き出した半島の突端だから、というだけではなく、風力自体が次第に増しています。
岬の突端に立ちました。高波が岩礁にぶち当たり、真っ白に泡立っています。沖合には断崖に囲まれた、無人島の險暮帰島が、逆光に黒々と浮かび上がっていました。
豪快な海岸線の風景を堪能、というよりも、未だ冬が明け切らぬような厳しさが、烈風と共に身体の芯まで沁みてくる岬の風景でした。
霧多布岬からの帰り道は、烈風との格闘になりました。
岬にいる間に、体が冷え切ってしまいました。ウィンドブレーカーとダウンベストを纏い、手袋を穿いている私ですらそうなのだから、春先の装いで車でやってきた人達は、さぞ辛かったことでしょう。
取るものもとりあえず、展望駐車場のトイレに駆け込みます。掃除をしていた主婦と「大変ですねえ、この風の中」「もう、大変です!」と会話を交わしました。
市街地では、何軒かの飲食店が、そろそろ店開きの準備をしていましたが、お昼にはまだ早い。ここはコンビニのおにぎりとお茶で、ハンガーノックを起こさない程度に、軽く腹ごしらえ。
厚岸に着いたら、3時のおやつに牡蠣をたっぷり食べるつもりなので、胃袋に余裕を残しておきたいのであります。
◆ 烈風の湿原
風はますます強くなり、市街地で家並みの中を走っている最中ですら、所々、強烈な横風に吹き飛ばされそうになります。真っ直ぐ走ることはもはや覚束ず、風上に若干斜行するように走って、ようやく目的の方向へ進める感じ。別の表現をするならば、風上に寄りかかるようにして走らないと寄り倒されそう、というべきか。
霧多布大橋を渡り、南へ方向を転じると、今度は真正面から風を受けることになりました。
この辺、左手は砂浜がずっと伸び、右手に広大な湿原。風を遮るものがありません。
相当に厳しい状況に陥りました。
フロントギヤがアウターでは、とても踏めません。インナーに落とし、何とか力任せでなくクランクを回せるギヤを選択。速度は時速15キロ程度がやっと。
ドロップハンドルの下を持ち、空気抵抗を減らそうと試みるが、この姿勢で顔を上げるスタイルは、頚椎ヘルニア持ちには拷問。
髓核が潰れている箇所に鋭い痛みが走り、左腕が痺れてきます。
しばらく走れば道はやや内陸の森の中へ入るらしいので、それまでの我慢、と、時折お辞儀するようにして頚椎を伸ばしながら、風に立ち向かいます。
ハンドルを取られ、フラフラとよろめきます。通行量が多くはないのが不幸中の幸い。
ともかくも、先へ進まないことにはどこにも行けない。踏まなければ。
※ 引き続き、北太平洋シーサイドラインを走ります。強風とヘルニアはしんどいけれど、日本離れした風景は素晴らしい。
ここまでお読み頂き、ありがとうございました。よろしければ続きもご笑覧下さい。
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