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[2] 神童ショパンの教育と「普通の生活」

手紙が書かれた1824年当時のショパンの生活を紹介します。


ショパンの家族

ショパン家には両親と4人の子どもがいます。
ショパン(フリデリク)は上から2番目。
才能あふれる一人息子、しかし病気がちな彼は、家族から特に大切にされ愛されていたと思います。

1824年夏、ショパン14歳の家族と年齢。一家はとても仲が良かった

【参考】ショパンの名前はフレデリック?フリデリク?
生まれ育ったポーランドではフリデリク(Fryderyk)
パリではフレデリック(Frédéric)と呼ばれていました。

ショパンの父はフランス人

ショパンの父はフランス人です。16歳の時にポーランドに来ました。当時、フランス語はポーランドの上流階級にとって必須の言語だったため、彼は貴族の子弟にフランス語を教える家庭教師となりました。ショパンが生まれた頃、父はワルシャワ高等学校のフランス語教師に就任します。

ワルシャワ高等学校と職員宿舎はワルシャワ大学の構内にありました。ショパンの父は、その職員宿舎に家族と一緒に住むことになったのです。

ショパン家、寄宿舎になる

ポーランドの貴族や地主は、地方の領地に住んでいました。しかし子どもに大学教育を受けさせるためには、ワルシャワにある高等学校に通わせる必要がありました。親たちは10代の子どもを預ける寮を探さなければなりません。
ショパンの父は自分と家族の住む職員宿舎に、数人の学生を住まわせることにしました。教師の家に下宿できるなら、親はこの上なく教育に適した環境だと安心するでしょうね。

【参考】寄宿舎、下宿、寮のニュアンスの違い

下宿 Stancja:学生が部屋を間借りすること。
学生寮 Dom studencki :学校の管理下にある学生のための居住施設。食事つき。
寄宿舎 Internat:家庭教師付き。学校の宿題やさまざまな分野の個別を指導する。食事つき。
寄宿学校 Konwikt:カトリック系の寮。生徒の人格形成に重点を置く。厳格な規律がある。食事も当然つく。

ポーランド語wiki 参照 https://pl.wikipedia.org/wiki/Internat

ショパン家寄宿舎(家庭教師と食事付き)の様子

ショパン家には高等学校の生徒(8歳から17歳の男の子)が4~6人が、2部屋に分かれて生活していました。
学校の宿題・家庭学習・課外学習・家庭のしつけと上流階級のマナーをフランス語教師のショパン父が教え、数学・歴史・哲学・音楽などを専門とする家庭教師が雇われました。

『ワルシャワでの最良の寄宿舎のひとつ、ひょっとすると一番値段の高い寄宿舎でしたね。そのかわり食事も上等だった。』『ミコワイは素晴らしい教育者で、人間としてもとびぬけて善良だった。それはそれとして、われわれ寄宿生への管理は厳しかった。彼はきわめて激情家だったから、われわれも大いに用心していました。』
(1835年ごろの寄宿生、シュチュカの回想)

『あの高潔な人々、すなわちミコワイ・ショパン夫妻のことは、感謝の気持ちなくして語ることはできません。彼らの思いやりに比べ得るのは、親が自分の子に対して抱くそれ以外にはありません。』(1820年ごろの寄宿生、マリルスキの回想)

『ショパン全書簡』ポーランド編 p637より一部抜粋

ショパンの母ユスティナは働き者で音楽好きで朗らかな人でした。寄宿舎はいつも清潔で温かい料理が出る家庭的な雰囲気だと、とても人気がありました。

逆に言えば、温かい料理が出ない清潔ではない寄宿舎が多かったのか…?それにしても食事はショパン家の子どもたち4人と寄宿生6人、それと家庭教師と手伝いの大人もいたので、毎回15人分作っていたのかな。大変そうですね!

寄宿生がいない時に一息つくショパン母。
メガネは主治医のジェラルド先生。想像図。

寄宿生とショパン少年

ショパン先生の厳しい指導のおかげか、寄宿生たちはみな成績優秀でした。少年ショパンは人懐っこい性格で、幼いころからずっと寄宿生のお兄さんたちと一緒の生活に慣れていました。寄宿舎に来る家庭教師の元で、寄宿生たちと一緒に家庭学習をしていました。

ピアノの先生であるジヴニーも、寄宿生たちの家庭教師として雇われていました。上流階級のたしなみとして音楽への理解は必要だったからです。ジヴニーは少年ショパンのピアノの才能に感銘を受け、特別な指導をするようになります。

この時期は、ショパンの人生で一番幸せな時期とも言われています。大人になったショパンは、1時間でも一人になることを嫌がったという逸話がありますが、子どもの時はいつも誰かがそばにいて笑ったり音楽を聴いてくれる環境だったからこそ、ひとりの寂しさを痛感するんですね。

神童と噂されるショパンと父の教育

ショパンは7歳の時に自作曲を発表し『神童』『モーツァルトの再来』と評判になりました。やがて大学構内に住む教授や知識人、貴族たち、ロシア皇弟など国の有力者にも気に入られ、毎週のようにパーティに招待され、ピアノを披露しました。

モーツァルト、ベートーヴェン、リストの父は、我が子が幼いころから演奏旅行に連れて行き、神童としての価値をどんどん高めようとしましたが、ショパンの父は違いました。
ショパンの父は息子が招待されて演奏する『サロン(パーティ)』は歓迎しましたが、プロの音楽家として出演料をとる『コンサート』には反対でした。
音楽は社交界での交流のために披露すればよい。将来は寄宿生たちと同じように大学へ進学し、法律を学び役人になることを望んでました。

こうして13歳のショパン少年は、音楽活動を減らして受験勉強をし、ワルシャワ高等学校に編入することになるのです。

ワルシャワ高等学校と初めての夏休み

ポーランドの学校は9月から始まり、翌年7月に修了します。
ショパン少年は4年生に編入し、よく勉強したので学年末には成績優秀者として表彰されます。そして初めての夏休みを迎えます。

夏休みになると、ショパン家の寄宿生たちはみんな親元に帰省します。寄宿生で同級生のドミニク・ジェヴァノフスキ(Dominik Dziewanowskiも、ワルシャワから160㎞離れたシャファルニャ(Szafarnia)に帰ります。

車では2時間。馬車は1日90㎞として2日くらいでしょうか?

ショパンは自宅に住んでいるので帰省するところはありません。そんなとき、ドミニクの父:貴族のユリウシュ・ジェヴァノフスキ(Ignacy A. Juliusz Dziewanowskiが自宅へ招待してくれました。実はドミニクの父、ジェヴァノフスキ氏(45歳)も、ショパン父(53歳)の教え子なのです。

こうしてショパンは初めての学校の夏休みに、初めて家族と離れて1カ月以上を過ごす旅に出かけるのです。


次の記事では、少年ショパンのポーランドを、当時の絵画・地図で読み解きます。ここから先は外国です!

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「ショパンの手紙に見る少年時代」

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