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【ショパンの友だち】~幼馴染でフルートふくお医者さん、ヤン・マトゥシンスキ
(1)肖像画を描く理由
19世紀前半、遠方の友人や家族に肖像画を送るのが流行ってたので、ショパンの手紙や伝記に出てくる人はほとんど肖像画がある。
肖像画。描き手とモデルは同じ場所に一緒にいて、時におしゃべりしながら描いてるはず。職業画家じゃなくて、友だちが描く場合もある。
技術的にはへたっぴでも、画家とモデルの関係性やそれぞれの人柄が感じられてとてもユニークだ。
そういう人間味あふれる肖像画に惹かれて、自分も描いてみたいと思った。彼らに関心を抱き、生涯を調べて、考え、共感し、記録する。
忘れ去られた人を思い出す。意味あることかもしれないね。
(2)ショパンの友だち ヤン・マトゥシンスキ
ヤン・マトゥシンスキは、ショパンのポーランド時代の親友のひとり。
※前回マンガでチラっと描いた病気のヤンは、ヤン・ビャウォブウォツキ(Jan Białobłocki)という人で、ショパン家(寄宿学校)の生徒。
こっちのヤンは、ショパンよりちょっと年上で歌が上手。
ヤン・ビャウォブウォツキとショパンの関係を詳しく知りたい人は、
noteのユリアさまの記事がコンパクトにまとまってておススメ。
さて、今回肖像画を描こうと思ったヤン・マトゥシンスキ(Jan Matuszyński)は、ショパンの同級生だ。
フルートをふく。なかなかの腕前らしい。20歳ショパンが公開演奏会の前に、試演のため音楽関係者を数人呼んだときヤンも呼ばれた。(親友ティトゥスくんも呼びたかったようだが、彼は遠方だし仕事で来なかった)
ヤンのお父さんはお医者さん。彼もワルシャワ大学で医学部へ進む。
1830年ワルシャワ蜂起(ロシアからの独立)の時は軍医として参加。
このとき、ワルシャワ大学のOB・学生・教師はみんな参戦した。
で、負けた。それから弾圧。大学と音楽院は閉鎖。ポーランド受難の時代。
ヤンは亡命し、財産は没収。ドイツで医学を修めパリに移住した。
1834年から2年間、ショパンの同居人『ぼくの侍医』となる。
ショパン父は『ヤンがルームメイトなら安心』だと喜ぶ。
父いわく『彼は不屈の若者だ。わたしは彼が好きだ』。お人柄が偲ばれる。
ワルシャワでもパリでも、ヤンはショパンとしょっちゅうオペラを見に行ったようだ。ちなみにヤンの弟はオペラ歌手。
(3)33歳、病気で亡くなる
ヤンは、結婚してしばらくして1842年にパリで亡くなった。結核。
『手紙』を読んで「またか…」という印象。
ポーランド人、結核で死ぬ人多すぎだろう??(;´・ω・)
ショパンの妹も父も、ヤン・ビャウォブウォツキも、詩人の友だちも結核。
ポーランド語サイトの結核レポ読んじゃったよ。19世紀当時のヨーロッパ諸国の中でも多かったみたい。国民病。今は研究進んで対策済み。
今の治療方法は薬と栄養と休息・規則正しい生活だけど、当時は感染症じゃなくて地域病・遺伝病と言われて、治療は断食と瀉血(血を大量に抜く)。これ、病人が弱るだけ。死期を早めた。ヤンがいくらお医者さんでも、これが当時の医療なら、自分の病気は直せまい。
もともと病弱なショパンくんも1835年(25歳)冬に喀血。でもその後の恋人ジョルジュ・サンドがお母さんのように栄養と規則正しい生活に気を使ってくれて、血を吐いてから14年、『不治の病』だが比較的長く生きた。
けど、健康だった友人が同じ病で先に死ぬのを見続けた。ツライ。
(4)ヤンの絵を、水彩で描く
![](https://assets.st-note.com/img/1635870417574-0mPrVzGZeD.jpg?width=1200)
元の肖像画と、似てなくても気にしない。(*´з`)
ヤン・マトゥシンスキ、もう忘れない。
フルートふきのお医者さんで、ショパンの友だち。
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