言い値で売ろう

体調が落ち着いてきて、代わりに脳の具合が悪くなっている。恐らく、平常通りの生活に近づけたおかげで、精神的な感度が平常通りに戻ってきたのだろうなと思う。いつも通りの希死念慮が戻ってきた。ふと、走行中の車のドアを開けて転がり出たり、歩道橋から落ちる空想をする。

先日の記事で鬱病リアリズムについて長々と解釈してみたが、それは自分にはしっくりくる感覚だからだ。小学生の頃に「私一人が死ねば私一人分の資源破壊はなくなるのだから、世界を想えば私は死んだほうがいいんじゃない?」と思いついて、これを打ち消す答えを得ていない。何故いまだにだらだらと生きているのかというと、この真理を思い出す頻度があまり高くないこと、そして意気地がなくて死ぬ勇気がないというのが理由だ。

家族を悲しませることは理由にない。私が死んだところで、母が職場の人間の憎しみを延々と口にしたり、父が自分の武勇伝を声高に語るとき、相槌を打とうが土の中で眠っていようが変わらず私はずっと透明な気がする。だって、人は自分の正しさを証明するのに夢中で、私のことなど気にしないから。子供の頃から肌で感じてきた。私が何を言おうと、「お前は何も分かってない」だとか「敏感すぎる、そんな意見は取り合う価値もない」と扱われて持論にすり替えられてきた。

だからこそ"なかったことにされたくないし、他人のこともなかったことにしたくない"と強く願ってきて、その一方で対面になると否定されるのが面倒で主張を避ける。ヘラヘラと親の機嫌をとって気持ちよく喋らせるという習慣を職場でも友人関係でも発揮させて、勝手に承認欲求を抑え込んだ結果、それを肥大化させてしまったのだろうと思う。決して、周りが悪いわけではない。こういう形でしか真に自己表現できないのは、私自身の悪癖でしかない。

自分に決して生きている価値もないと思いつつ本当に死ぬ覚悟が決まるまで生きること、もう別にそれでいいんじゃないのと思っている。それは、生まれながらにして自分には決して剥奪されない価値があると信じることと何が変わるだろうか。目の前の他人の機嫌を取ることで、もしくは人間社会に利益を産むことで、自分の価値がプラス、マイナスされる人生観は疲れる。それならば、自分の価値は固定させた方が楽だ。子供の頃に高く固定することに失敗した私は、せめてどん底に自分の価値を設定して安寧を得ようと思う。

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