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ライフリテラシー ~人生の感度~

 最近、○○リテラシーという言葉をよく耳にしますが、「ライフリテラシー」という言葉(概念)がなぜ存在しないのか、ずっと不思議に思っております。と言うと、ほとんどの方は「?」となるかと思いますので、少し説明いたします。

 まず「リテラシー」とは、もともと識字率という意味で、読み書きの能力や読解力のことを指す言葉でした。現代ではより広義で捉えられる場合が多く、「ネットリテラシー」や「メディアリテラシー」のように、ある特定の分野において正しい情報を自分で取捨選択し、判断、活用できる能力を指す言葉として使われております。昨今、「健康リテラシー」や「人種リテラシー」などという言葉もあるようです。

 実は、ライフリテラシーという言葉自体はすでに存在しております。調べてみると、その名もズバリ「ライフリテラシー」というゲームがあるそうです。これは社会で生きていく上で必要な知識である、保険、税金、労働、年金などに関する社会制度をきちんと理解し、それを人生に活用できる能力を養うことを目的としたゲームだそうです。

 確かに私自身、大学を卒業し、気が付けば漫然と社会人になって働いており、いまだに社会制度について正確に理解していないことがたくさんあります。これらを総合的に理解し、身に着けていくことは現代社会を生きていく上でとても大切なことだと思います。その重要性については何の異論もありません。しかし、この概念はライフリテラシーというよりは、むしろ「ソーシャルリテラシー」と呼んだほうが、しっくりくるような気がいたします。

 私が考えているライフリテラシーというものは、ただ現代人としてより良い社会生活を送るための知識や能力=生きるためのノウハウを意味するものではありません。私はこの言葉を「ライフ=人生」「リテラシー=感度」と捉え、以下のように定義してみてはどうかと考えております。

ライフリテラシー:確固とした生死観を持ち、自分自身の人生を能動的に生きるための明確な指標を持っているかどうか

 つまり、自分自身の「命」に対してどれだけ高い感度で向き合っているかということです。人間は言語を使って「思考する」ことができる動物です。「思索する」と言い換えてもいいでしょう。これは、人間としてこの世に生まれ、いつかひとりで旅立ってゆく「自分」というものを理解する上で、とても大事なことです。どこかで聞いた「インドに行って、人生観変わった」などという話ではありません。人間である以上、我々は良くも悪くも色々なことを思考し、問うことができる能力を一人ひとりが備えております。そんな「思考する動物」である我々人間にとって究極の問いと言えるのが、「生死の問題」ではないでしょうか。皆さんもこれまでに、このような問いかけを自分自身にしてみたことはありませんか。

「なぜ自分は存在しているのか?」
「自分はどこから来て、死んだらどこへ行くのか?」
「生きることにどんな意味があるのか?」
「自分が死ぬとはどういうことなのか?」

 多くの哲学者たちも、これらの問いに対する答えをひたすら求め続けたのかも知れません。しかし人類はいまだにこの問いに対して、明確な答えを得ておりません。

 命あるものはいつか必ず死ぬ。それは「当たり前」のことで深く考えても仕方がない。人生の目的や意味などは考えずに、どう人生を生きるかが最も重要なことだ。そういう考えの人もいます。また、家族、仕事、趣味、生きがいなどに自分が生きる目的や意義を見出し、そのためにただ一生懸命生きるのが人生だ、と考える人も多いでしょう。私は決してそのような考え方を否定するつもりはありません。

 人が人生をどのようなものと捉えているかはその人の自由であり、私が何ら関与したり意見したりすることではありません。しかし、自分自身の人生というものを考えた時、この「生死の問題」に対して自分なりの答えを出さないままで、人生を終えたくはありません。その答えを出さずに最期の時を迎えるとしたら、それまでどんなに(表面上は)充実した人生を送ったとしても、私は絶対に深い後悔と疑問を残して死ぬことになると思います。

 私の父は、2014年、長い癌との闘病の末、他界しました。妻、子供たち(私には一歳上の兄がいます)、仕事、生活……来し方を振り返れば、これ以上言うことがないというくらい充実した、楽しい人生だったと父の日記には記されていました。しかし一度だけ病床で、もっと全然違う生き方ができたのかも知れない、世間体などに囚われず、自由に生きればよかったと私に洩らしたことがあります。その時は、その言葉の真意を私は理解できていなかったと思います。しかし、今は何となくその意味がわかるような気がします。父は、鳥や花のように、風が吹くように、雲が流れるように、自然の循環の一部としての人間の命を生きたかったのではないかと思います。

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 死は時に前触れもなく訪れるものです。私はたった一度の人生を悔いなく終わるために、常に自分自身のライフリテラシーを高め、確固とした生死観を築いてゆきたいと思います。では具体的にどうすればよいのでしょうか。決して簡単なことではないので、私は日々それを模索しております。まず大切なことは、しっかりと自分自身と向き合うことだと思います。

 宗教は一つの答えかも知れません。信心深い人は皆、聖書に、コーランに、お経に、その答えが明確に書かれていると言います。本当にそうなのかも知れません。宗教によって絶対的な安心や幸福を感じているのであれば、その人はすでに非常に高いライフリテラシーの持ち主と言えるでしょう。宗教には、人間の生死観をも決定づける強い力があることは確かです。私は、特に仏教については非常に興味を持っております。お釈迦様が2600年前に説かれたこと、そしてこの世の真理とは何なのかを明確に知りたいという思いがありますので、積極的に仏教を学んでおります。今のところ、まだその「答え」にたどり着くことはできておりませんが、このアプローチは続けていきたいと思います。

 詩を読んだり、自分で作ったりすることもまた、私のライフリテラシーを高めるための重要な要素です。多くの詩人の作品を読み、深く味わうことで彼らの生死観や人生観に触れることができます。そうすることで自分自身の人生に対する感度も少しずつ高めていくことができるのではないかと思います。また、自分で詩作を行うことは、現在、私の人生に対する感度がどの程度の位置にあるのかを具現化し、明確化するというプロセスでもあり、私にとっては自己と向き合う最良の方法のひとつです。

 詩以外でも、写真を撮ったり、音楽を作ったり、文章を書いたりすること、つまり義務としてではなく自発的に何らかのアウトプットを継続的に行うということは、それだけ「個」としての自己と向き合っているということです。これらの行為はすべて、自分自身のライフリテラシーを高めるために非常に効果的な手段であると思います。

 何度も言いますが、人間は考えることができる生き物です。しかし、そうであるがゆえに、他の動物や植物が感じ得ないような苦しみを抱えながら生きていかなければならないことも事実です。「考えないで生きていく」という選択もできるでしょう。しかし、せっかく与えられたこの能力を活かさずに、限られた時間しかない「人間としての人生」をぼんやりと鳥籠の中で過ごしていくことは、とてももったいないような気がいたします。

 膨大な情報に瞬時にアクセスできる時代になったことで、社会は大変便利になりましたが、一方でその情報の波に飲み込まれ、自己を見失ってしまうという大きな危険性もあります。誰かが決めた価値や常識と呼ばれる観念を鵜呑みにすることなく、自分自身の命を真っ直ぐに見つめ、人生をしっかりと歩いてゆくことこそ、本当に生きるということだと私は思います。そのためにこれからも私は、私自身のライフリテラシーを常に高めていく努力を続けていきたいと思います。

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