芥子の実。
芥子の実は、何処の家を探してもないらしい。
頭に響く音がした。充電器が抜かれた感覚に近い。飽きているのに変えようとも思わない天井を睨みつけた。この布団の温もりは、いつも私をダメにする。もう一回、寝ようと試みたがスマホの画面に嫌な気配を感じた。スマホのトップ画面には、実家の兎が寝ている写真を使っている。いつ見ても、会いたいと思わせてくれる。この感覚が、帰省を早めるいい薬だ。
『いつもの居酒屋で待ってるね!』と菫からLINEが来た。このLINEを見ても、罪悪感を抱かなかった。既読をつけて、重い腰を上げる。いつもなら最寄駅に集合して、一緒に居酒屋に行くのだが、古い草刈機のエンジンを積んでる私には人と歩めなかった。行く道中、頬から伝う涙に『大丈夫』と言ってくれる人を何の気にもなしに振り払った。ボトボトと歩く居酒屋までの道中、どれだけの人に口を隠されただろう。居酒屋が見えた時に、我に帰った。今の自分の姿が恥ずかしくなり、スマホの画面を見た。自分の顔を見つめるよりもスマホの画面が光る方が速かった。見てはいけないものを見てしまった。心の底から湧き上がる何かを塞ぐことなんて出来なかった。顔中の穴から何かが出ている気分だった。左肩に何かが触れた瞬間、それを振り払った。近くのコンビニに入り、トイレに駆け込んだ。横目で見えた店員の顔を、無性にも殴りたくなった。
何とも言えない香りの漂う空間。なぜか、この空間だけが私の居場所だと思った。トイレに何分いたかわからない。左ポケットが、揺れた。菫からのLINEだろうと思い、触らないでいた。トイレの鏡で軽く化粧直しした。目の異常だけは、どう足掻いても隠せなかった。再度、居酒屋の前に立ち自分の顔が気になったが、見てしまったら踏み出せないと思った。いつも菫が上げてくれる暖簾を見て、戸惑った。手を使おうか、顔で突きってやろうか。流石にと思い、手を使った。上げる瞬間の手の震えに驚いた。それと同時に、暖簾というのはこんなにも重たいものだということを初めて知った。
『ごめん、遅くなった。』
『もう!遅いよ。』
いつもの大衆酒場。やっぱり、親友との酒はよく喉を通る。そう思いたいが、今日は違う。いつもならレモンサワーを最初に頼むが、今日はビールを一気した。初めて見せる姿に菫は、目を大きくした。よくドラマで見るうまくいかないサラリーマンの真似をしているのかも知れない。私だけだろうか。きっと、うまくいかないサラリーマンもそうだろうと思いたい。人類は今日は、今日は、と生きている日々が多いと思う。しかし、今日だけは違う。いつもなら、課題などのやらなければならないことを先延ばしにする癖がある。私自身、明日という日に任せすぎている。でも、今日という日も明日に任せすぎて、今日を気楽に生きたいと思った。
『なんか頼んだ?』
『ううん。何も。』
『え!めっちゃ待ったでしょ。先に頼んでもよかったのに。』
『それはないよ。桃と会うためにここに来ているんだから。』
菫の言葉に胸が締め付けられる。私は、今日のこの予定を億劫と思ってしまってないかと再確認した。億劫なんて言葉じゃ収まらない。
『桃、今日どうした?』
流石に聞かれるか。それもそうか。今日は明らかに異常すぎる。菫の顔に突きつけるようにスマホの画面を見せた。菫のん?っていう顔を察して、口の動きで知らせた。体の底から噴き上がる感覚がまた蘇った。
『そうなんだ。大変だったね。今日はごめんね。こんな辛い時に。』
『うん。辛いなー。』
涙を怺えると声を出す、その鬩ぎ合いが私を苦しませる。その声に察して、菫は平然を装い、時に私を穏やかに見つめた。泣いている私に言葉なんてかけてくれない。ただ穏やかに、手だけを握ってくれる。この優しさに、私の決死の自己統制も全て崩れた。涙から思いまでも全て。
『会いたい、触れたい。頭を、首を、背中を、あの人の全部を思いを込めて触れたい。何でそれが出来なかったの!確かに目の前にいた。あの時間が必ずあった。それなのに全部なかったみたいになるのは、何で!』
菫の微かに聞こえる相槌が、孤独にさせない。自分でも何を言ってるのか、わからない。これが号哭ということなのか。
『寝ている時、キャベツに夢中になっている時、無心に爪を研いでいる時、あのひと時をもう一度、もう一度でいいから感じたい。まだね、実家に帰ったら、そこにいると思っている私がいるの。朝のお母さんからのLINEが嘘だったと思ってる。ちょっとやりすぎのドッキリじゃないかな。テレビ局の変なドッキリ企画で芸能人でもない一般人を題材に。そんなつまらない企画でもいいから私を標的にしてよ。嘘が罷り通る現実なら、この真実をも嘘にしてよ。』
自分がどんな声で、顔で、動作で表現しているかわからない。今の私にそんな余裕なんかあるはずがない。もうこの店を出禁にでもなってしまいたいな、そのくらい私は壊れている。
『はぁー、会いっ』
『ドッ』
まだ止まらない私を、重たい音が制した。
『桃。人生は、いつもちょっとだけ間に合わない。』
装飾照明に照らされた菫の目が、やけに力強く見えた。こんな感情の私でさえも、うっとりしてしまう。
『桃の気持ちはわかるよ。実家の話になったら、いつもその話ばかりだもん。桃がしぼしていたのはよくわかる。』
『シボ?』
『思うに慕うで、思慕。恋しく思うこと、一緒にいたいっていう意味がある。』
『そんなこと言わないでよ。落ち着いてきたのに。』
『どれだけ時間が経っても、あなたへの思慕が薄れることはなかったってね。恋愛小説の見過ぎかな。』
綺麗な白い歯が輝いていた。この言葉に枯れそうな目もまた潤った。
『素敵な言葉だね。』
『でしょ。思慕、大事な言葉。』
『うんうん。』
『あとね、桃。亡くなった人たちは、この世にはいない。だけど、生き続ける方法はあるよ。』
『ん?どういうこと?』
『私もね、6つ離れた弟を亡くした。前に言ったよね。8年前に弟は、生まれつきの持病で死んだ。こんなに早く亡くなるとは思わなかった。もう何年かは生きていると思ってた。その時は、辛かったな。まだ12歳の私には、抱え切れる出来事じゃなかった。学校にも行けなくなった。ふとしたら、涙が出てくる。無意識に。でもね、その時に私を助けてくれた人がいるの。』
『誰なの?てか、生き続ける方法は何?』
『最後まで聞いてよ。』
大好きで、可愛かった弟。家の中には、彼を感じさせるものがたくさんある。それ故に、私をまた寂しくさせる。卒業式まで1ヶ月というのに、学校に行けないでいる。家にいてもすることはない。ただ1日を何もないままに過ごす。そんなある日、母親にお使いを頼まれた。最初は断ったが、色々な面倒で私しか行けない状態だった。仕方なく、何日ぶりかの日を感じた。空気が、五感を冴えさせる。庭を出ると、
『菫ー!久しぶり。』
近所のお兄さんだ。弟が亡くってから、他人に初めて会った。相変わらず、元気溌剌な少年だった。
『どこにいくの?』
『スーパーまで。お使いを頼まれて。』
『へー、偉い!久しぶりだし、俺もついていくわ。』
『うん。』
嫌だった。近所のお兄さんであるといえ、こんな悲惨な姿を見せたくなかった。自分本位なところも変わっていなかった。
スーパーまでの道のりに幼稚園がある。最初から分かってはいた。涙を怺える。でも溢れ出す。頬から伝う涙にお兄さんは、
『どうした?大丈夫?』
『大丈夫じゃない。帰る。』
来た道を全力で帰ろうとした。地面を蹴った瞬間に、右手を掴まれた。
『やっぱり、どうかしているよ。久しぶりに会ったから変わったのかなって思ったけど。違うみたいだな。俺に話聞かしてよ。』
承諾もしていないのに、手を引かれて公園に着いた。人はいない。ベンチに座っててと言われ、その通りにした。そこで見た空は、あまりにも空虚だった。少しの間を置いて、ジュースを持ったお兄さんが来た。ジュースをもらい、感謝を伝えた。
『弟が死んだ。悲しい、辛い。学校なんて行けない。』
『それは、辛いね。今日は、着いてきてごめんね。』
『学校に行くと、一年生がいるでしょ。あの子達を見ると、弟と重ねてしまう。友達とかけっこ、ケンカ、習い事、弟は全て出来なかった。それを思うと、私は生きるのが辛い。』
『うんうん。』
『弟が一生懸命描いた私の似顔絵、仮面ライダーのベルト、もうすぐ小学生だねって買ったランドセル、あれも全部辛い。弟の笑顔が残ったもので思い出す。はぁー辛い。』
目に大量の涙をそのまま流した。お兄さんは、優しい声で
『その人の思い出が巡る限り、その人は生き続けている。触れた、話した、目が合う、その人を感じた全ての時間を大切な宝物にすればいい。菫の中で、一生生き続ける。そうすればいいんだよ。』
家の帰路に着いた。お兄さんは、何かの用事で先に帰ってくれた。本当に用事があったのかは、知らない。ふと、思い出したことがある。お兄さんのお父さんを見たことがなかったことに。
赤く腫れた目で、舵を切る。酔ったのか、腫れたせいなのか、瞼が重い。それなのに視界は、澄んでいる。今日一日、曇った視界で過ごしていた。そのせいか、夜なのに光量が合わない。街灯の下に来た時、クラっとした。電柱に寄りかかり、ため息をつく。倦怠感に、体を襲われた。亡きもののせいか、今の私には生きる喜びがある。倦怠感でさえ、生を感じた。そして、抗ってやろうと思った。大きく深呼吸をし、一気に体大きく伸びをした。空には、無数の星がある。流星群みたいに光あるものが、全て美しい。慣れてくると、心に優しい。見間違いかも知れないが、亡くなっていく星があった。
キサー・ゴータミー、貴方と抱擁を交わしたい。
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