【懐古】逃げたけど、たまたま上手くいっただけ。
10年前の2014年2月に上京してきました。
「東京進出」「活動拠点を東京へ」などプロフィールを書く上で聞こえの良い言い回しで言う事も出来ますが、この上京の選択ははっきり言って"逃げ"でした。
大阪から逃げて東京に来ました。
大阪では2009年4月から5年弱、構成作家を名乗って活動。
食べられてなかったし、今思えば低い志だな、とは思いますが、1年目より2年目。2年目より3年目と、作家としての稼働量は増え、些少ではありましたがギャラも増えていき、大阪でずっと活動していくのだろう、と漠然と考えていました。
状況が変わったのは2013年。大阪で活動していた最後の1年です。
構成作家としての稼働量がかなり増え、満足にアルバイトをする時間はないものの、作家のギャラだけでは生活出来ず、両親にお金の相談。
その上、人間関係においてとてつもないストレスを抱えながら仕事をするようになってしまいました。
その年の春、新たに先輩の紹介で始めたとある職場での仕事がありました。
その界隈は今よりも"村社会"的な要素が強かったと思います。
僕はいわゆる外様的にその界隈での仕事を始めたので、当たりが強く、暗黙のルールも教えてくれないし、把握しきれない。
自分が人間的にも、仕事の能力的にも、社会人としても、大変未熟で、周りに迷惑をかけてしまい、その失敗による叱責や指導も毎日のようにあり、そのストレスが限界に達しました。
仕事を紹介してくれた先輩からの深夜0時〜5時ごろまでの説教。
その人が先輩で僕が後輩だから、という理由から理不尽な発注や作業量の分担。
僕の悪口、陰口、未熟さを周りへの吹聴。
散々言っていたらしいですし、その陰口を僕の友人・知人が聞いて心配してくれる、なんて事もありました。
仕事、人間関係、金銭面…それぞれのストレスがどんどんどんどん大きくなり、初めて構成作家の仕事を辞める事を考えました。
職場に向かうエレベーターに乗る前に毎回えずいていたと思います。
構成作家を辞めたくないけど、大阪で作家はやっていくのはもう難しい…。
作家自体を辞めるか、東京に行って作家を続けるかの二択でした。
いや、というよりも現状から逃げたくて、なんとか周りから見て前向きに捉えられそうな「上京」という選択肢を作り出した感覚でした。
幸いお世話になっている先輩と、同期の1人が既に上京していた為、東京の作家事情を聞こうと思い立ち、2013年9月、縋るように夜行バスに飛び乗って会いに行きました。
そのバスの中で上京組の先輩・同期からスケジュールを調整してくれるメールが届く一方、大阪の先輩から、理不尽な発注メールが届き「もうこの人とは仕事できない。しない。」という意思も決意を固めた記憶が鮮明に残っています。
東京で先輩と同期と会い、話を聞き、上京しようと改めて決意し、大阪での作家仕事を極力抑えアルバイトで最低限のお金を貯めました。
2014年1月31日上京。
極力初期費用を抑えて住める東京のシェアハウスへの引越しは決めたものの、引越し業者を頼むお金までは貯められなかったので、大きめのリュックサックとIKEAのデカ青袋にパンパンに荷物を詰め夜行バスで東京へ辿り着きました。
テレビも青袋に入れてました。今考えるととんでもないですね。
あれから10年、おかげさまで色んな運と人に恵まれて構成作家としてなんとか食べられるようになりました。
まだまだ人間的にも作家としても未熟ではございますが、ぼちぼちやっております。
noteで文章を書いてもたくさんの方に読んでいただけるようになり、大変ありがたいです。
あの時逃げて良かった。心からそう思います。
全ての"逃げ"を肯定する事の是非はわかりませんが、自分の"逃げ"は後に肯定出来るように日々生きていきます。
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