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#教師のバトン は「不安な個人、立ちすくむ国家」の教育版にはなれなかった


文科省若手官僚による、#教師のバトン プロジェクトが残念な形になってしまったことや、元々めざしていたものはなんだったのかについて自分なりに考えてみたことをまとめました。

あくまで想像。なんならSFに近いかもしれませんが、意外とこういうことだったんじゃないかと思うのです。



まず、この教師のバトンプロジェクトは、平成29年に若手官僚有志から出された「不安な個人、立ちすくむ国家」への憧れから出発したのではないかと考えています。



「不安な個人、立ちすくむ国家」は、国内の人口構成の変化、海外との比較した貧困率、GDPと幸福度などなど、たくさんのデータを参照しつつこれからの国家の方向性を提案した資料です。検索したらすぐPDFが出て、誰でも読めます。


https://www.meti.go.jp/committee/summary/eic0009/pdf/020_02_00.pdf



このPDFが出た当時、結構話題になってた(気がする)んです。書籍にもなったみたいですし。

で。この「不安な個人、立ちすくむ国家」の成功体験が、文科省若手官僚に伝わったか引き継がれたかして、教師のバトンプロジェクトスタートになったのではないかというのが僕の想像です。端的にいえば、「不安な個人、立ちすくむ国家」の教育版をつくりたかったんだと思います。


こう考えると、教師のバトンプロジェクトが本当にやりたかったのは、Twitterで現場の声や先進的な事例を吸い上げるだけではなく、日本の教育に関わる諸問題のデータと、これからの社会の予測を列挙した上で、具体的な方向性まで提示したかったのではないでしょうか。



文科省にとって、日本の教育に関わる諸問題のデータと、これからの社会の予測を示すことは今までの蓄積でも十分にできた。

それこそ、「不安な個人、立ちすくむ国家」を引用しても良い。

けれど、その先の方向性を提示するには文科省だけの力ではどうしようもなかった。一個人、あるいは一職場単位で行われている、現場のローカルな実践はなかなか文科省には届かないでしょうから。



引き続き想像ですけど、現場のローカルな実践をどうやって集めるかプロジェクトメンバー内で話し合ったとき、「Twitterのハッシュタグ使おう。先進的な実践が可視化されれば、先生になろうか悩んでる人たちの背中を押すことにもなるだろう。」みたいな意見が出て、教師のバトンプロジェクトが生まれたんだと思います。



しかしご存知の通り、このプロジェクトは官僚たちが想定したゴールではなく、どちらかと言えばネガティブな方のゴールに向かっています。初期はプロジェクトメンバー(&もしついているなら広告代理店)の見通しの甘さが、今は萩生田文科大臣の「品の良い書き方を」という発言が原因となって。



このプロジェクト、最終的にどうなるんでしょうね。「不安な個人、立ちすくむ国家」はまとめたことをPDFにしてリリースしましたが、同じようにするのでしょうか。

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