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ジェスチャーによるコミュニケーションから創発する自己意識 (“動物のジェスチャー”から始まるシンボリックプロセス — ジェンドリンとミード: 6)


社会プロセスの観点から説明される「自己」

Mead (1934) は、Wundt (1900) を次のように高く評価しています。

…ヴントは、後にシンボル的なものとなるが、その初期の段階では社会的行為の一部として見出されるものであるとして、ジェスチャーという非常に貴重な概念を取り出した。 (Mead, 1934, p. 42; cf. ミード, 2018, p. 241; 2021, p. 45)

その一方で、Mead (1934) は、他の個体とのコミュニケーションから独立して「自己 (the self) 」が実体として自存するというWundt (1900) の見解を批判しました。

難点は、ヴントが社会的プロセスの中でコミュニケーションを説明するために、自己を社会的プロセスに先行するものとして前提にしてしまっていることである。それとは逆に、自己は社会的プロセスの観点から、そしてコミュニケーションの観点から説明されなければならない。 (Mead, 1934, pp. 49–50; cf. ミード, 2018, p. 245; 2021, p. 49)

自己とは、ジェスチャーの会話が有機体の中に内面化されたプロセスであり、実体というよりもむしろプロセスである。このプロセスはそれ自体で存在しているのではなく、個人がその一部である社会組織全体の単なる一局面にすぎない。 (Mead, 1934, p. 178; cf. ミード, 2018, p. 389; 2021, p. 191)

この批判的な立場は、『プロセスモデル』 (Gendlin, 1997/2018) に引き継がれました。

おそらく「自己」という言葉をもっとふつうに使用できるような特別な発展があるが、自己意識と自己の感覚が存在するのであって、自己と呼ばれる他の内容から切り離された実体や内容が存在するわけではないことを理解することが非常に重要であることがわかるだろう。 (Gendlin, 1997/2018, p. 125; cf. ジェンドリン, 2023, p. 209)


ジェスチャーの進化と自己意識の創発

『プロセス・モデル』の「VII‐A シンボリックプロセス」の中でも、「(a)身体の見え」の節の “動物のジェスチャー ” と、「(f)新たな種類の推進」の節の本当の意味でのジェスチャーとでは違いがあります。(f)の節では、初めて「自己意識」が論じられています。例えば、次のような箇所が挙げられます。

これまでのところ、私たち人間は、少なくとも2人の相互作用においてのみ、人間であり、自己意識的である。自分自身の身体的見えを推進する能力は後からついてくるものだ。 (Gendlin, 1997/2018, p. 125; cf. ジェンドリン, 2023, p. 210)

しかし、このような論述は唐突であり、この節を読んだだけでは、ジェスチャーの論述と自己意識の論述をすぐに結びつけることは難しいかもしれません。

ジェンドリンが参照したと思われるミードの論述に立ち戻ってみると、ジェスチャーの進化と自己意識の創発が関連していることが理解しやすいように思います。

まず、「(f)新たな種類の推進」でのジェスチャーの論述を確認してみましょう。

新しい連続は、本当の意味でジェスチャー連続と呼ぶことができる (一方、動物の “ジェスチャー” は引用符で囲まれており、実際にはジェスチャーではない)。…このような連続がインプライされると、身体の万事連関は他者の見えや聞こえ、動きをインプライし、それが他者の身体で生起した場合、こちらの身体を推進する。 (Gendlin, 1997/2018, p. 122; cf. ジェンドリン, 2023, p. 206)

次に、上記の「身体の万事連関は他者の見えや聞こえ、動きをインプライする」というのは、ミードからの引用の「他の個体のイメージを抱いて叫ぶ」に対応していると思われます。

ジェスチャーの根本的な重要性は、意味の意識の発達、つまり反省的意識の発達にある。ある個体が他の個体のジェスチャーに適切な反応によって単に反応するだけである限り、意味の意識は必要ない。その状況は、緊張した手足、剛毛、むき出しの歯で、うなり声をあげながら歩く2匹の犬のようなレベルである。ある生命体のジェスチャーが別の生命体にもたらす反応をイメージするまでは、自分のジェスチャーの意味を意識することはできない。意味は、ジェスチャーの結果をイメージすることによって初めて現れる。恐怖で泣き叫ぶのは即座の本能的行為であるが、耳を傾け、同情的な表情を浮かべ、助けに行こうとする他の個体のイメージを抱いて叫ぶのは、少なくとも意味の意識を発達させるのに有利な条件である。 (Mead, 1910, p. 178 [SW, 110–1])

ジェスチャーは意識的である (有意味である) こともあるし、無意識的である (有意味ではない) こともある。ジェスチャーの会話は、人間レベル以下では有意味ではない。なぜなら、そうした会話は意識的ではないから、つまり、自己意識的ではないからである (ただし、感情や感覚を伴うという意味では意識的である)。 (Mead, 1934, p. 81; cf. ミード, 2018, pp. 282–3; 2021, p. 87)


相互作用的な人間の本性に基づいた単独での更なる発展

進化の歴史において他の個体と相互作用した経験が数多くあったからこそ、私たち人間は一人で物事を考え、反省することができるのです。

私たちが感じることは相互作用的であり—状況の中で—他者と生きていることと関係がある。(隠遁生活者でさえ、他者から離れた状況にいる。単独でのさらなる発展ももちろん可能だが、それは相互作用的な人間本性を根拠としている。) (Gendlin, 1997/2018, p. 193; cf. ジェンドリン, 2023, p. 313)

自己が発生した後は、自己はある意味、社会的経験を自己自体のために提供する。しかし、社会的経験の外で自己が発生することは考えられない。自己が発生したとき、私たちは、一生独房に閉じこもっている人間のことを考えることができる。しかし、その人間は依然として自分自身を伴侶としており、他者とコミュニケーションしていたように自分自身と考え、会話することができるのである。 (Mead, 1934, p. 140; cf. ミード, 2018, p. 346; 2021, p. 151)

参考文献

Gendlin, E. T. (1997/2018). A process model. Northwestern University Press. ユージン・T・ジェンドリン [著]; 村里忠之・末武康弘・得丸智子 [訳] (2023). プロセスモデル : 暗在性の哲学 みすず書房.

Mead, G.H. (1910). What social objects must psychology presuppose? The Journal of Philosophy, Psychology and Scientific Methods, 7(7), 174-80.

Mead, G. H. (1934). Mind, self, and society: from the standpoint of a social behaviorist. (edited by C.W. Morris). University of Chicago Press. ジョージ・ハーバート・ミード [著]; 植木豊 [訳] (2018). 精神・自我・社会. G・H・ミード著作集成:プラグマティズム・社会・歴史 (pp. 199–602). 作品社. ジョージ・ハーバート・ミード [著]; 山本雄二 [訳] (2021). 精神・自我・社会. みすず書房.

Mead, G.H. (1964/1981). Selected writings [Abbreviated as SW] (edited by A.J. Reck). University of Chicago Press.

Mead, G.H. (1982). 1914 class lectures in social psychology. In The individual and the social self: unpublished work of George Herbert Mead (edited by D.L. Miller) (pp. 27-105). University of Chicago Press.

Wundt, W. (1900). Die Sprache (Völkerpsychologie : eine Untersuchung der Entwicklungsgesetze von Sprache, Mythus und Sitte, vol. 3). W. Engelmann.

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