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【ソシュールの言語学と構造主義のつながり】 3/4 構造主義が世界標準の歴史観「進歩史観」を否定解体する


ソシュールの言語学が、後の「構造主義」の発生に影響を与えたということは、ネットでも多く書かれている。ところが、どのようにして影響を与えたかについては、残念ながら参考になるページがネットでは見当たらなかった。それならば自分で書いてみようと考えた。

前回までの2つの記事で、一般的な「恣意性」と学術用語での「恣意性」についてそれぞれ解釈をしてきた。どうして「恣意性」にこだわって書いたかというと、この「恣意性」が「構造主義」へとつながっていくクリティカルなキーワードになるからだ。そして今日のこのnoteから、ソシュールの思想がどのようにして「構造主義」につながっていったのかについての本質に徐々に近づいていく。

先に断っておくが、私は思想哲学の専門家ではなく、ただのnoter(現時点、受験生でもある)だ。

多くの若者がトレンディドラマにはまっているなか、私はテレビに見向きもせず構造主義関連の本をなぜか好き好んで読むような学生時代を過ごした。構造主義をモチーフに原稿用紙120枚ほどの卒論も書いた。それからポスト構造主義やポストモダニズムにも興味が広がり、かれこれ30年だ。

構造主義について考えてきた時間はそれなりにあるが、体系的に学んだ経験はない。学んだとしても広く浅くつまんだ程度だ。だから無知蒙昧なことがばれることは承知のうえで書いている。言い訳じみた講釈はここまでにして、まずは構造主義が生まれたことによって、構造主義以前の常識的な歴史観が否定、解体されてしまうということについて触れておきたいと思う。

「進歩史観」が世界の覇権を握る

私たちは教科書的な歴史観がすべてだと思ってはいないだろうか?

教科書的で採用している歴史観は、歴史の流れを上り階段を上るようなイメージ。例えば、1868(慶応4)に明治維新が起こって、江戸から明治時代になり、近代化への一歩階段を上ったというようなイメージだ。

そして、私たちが抱いている歴史観は、歴史教科書同様に、人間の知恵や技術の発達を依拠として、歴史は後退することなく前へ進み、止まることなく発展するという進歩史観だろう。進歩史観では、歴史の発展には一貫性と連続性があると言ったりもする。

この進歩史観は色々なところに浸透している。

ダーウィニズムも広く捉えれば進歩史観と言えなくもない。産業革命を歴史の発展として大々的に教科書で取り上げるのも進歩史観があってのことだ。資本主義から社会主義、共産主義へと発展のビジョンを描いたマルクス主義も唯物史観が基になっているが、唯物史観も進歩史観のひとつだ。SDGsも未来の発展を期しての取り組みで、進歩史観が背景にある。何よりも科学技術史は進歩史観なしでは語ることができない

ここに挙げた歴史観はすべてが西欧の知の体系に覆われているもので、例外はない。そして進歩史観は西欧を中心に世界中に普及し、現在では進歩史観が歴史観のすべてだと言ってもいいくらい、歴史観の世界標準になっている。歴史観においては、進歩史観が世界を支配していると言っても過言ではない状態だ。

構造主義哲学者ミシェル・フーコーが世界王者「進歩史観」の論破に成功

では逆に、この進歩史観がすべてではないと反論をするとしたらどのような論理展開をするだろうか?この問いに答えようとするときに、私たちは(少なくとも私は)、進歩史観以外の他の歴史観がなかなか思いつかない。思いつかないなら作ってしまえばいいとどこかで聞いたことがあるので、ない頭を使ってオリジナルの歴史観を自分で考えてみようと思う。

例えば、ユダヤ教やキリスト教には終末思想があるし、仏教には末法思想がある。終末思想をベースに歴史を語れば戦争で世界の終わりに近づいたことになるかもしれないし、末法思想では産業革命が世の乱れとして教科書に載るかもしれない。名づけて終末史観と末法史観である。実は終末思想をベースに救済史観というものが存在するが、ここではないことにする。

考えてはみたもののこの二つの悲観的な歴史観では、とても進歩史観に太刀打ちできない。そこで構造主義の哲学者として有名なフランスのミシェル・フーコーの登場だ。

実は、フーコーは、歴史は一貫して発展し続けるという進歩史観の一貫性と連続性を根幹から崩してしまい、世界的に覇権を握る進歩史観を論破してしまった人だ。ただ論破に利用した理屈は、神や仏がひとりで悟ったようなスタンドアローンなものではなく、フーコーはソシュールから着想を得ていたのだ。

今までにないソシュールの新しい理論に刺激を受けた構造主義の哲学者思想家は、ミシェル・フーコー以外にも、レヴィ=ストロース、ロラン・バルト、ジャック・ラカン、アルチュセールなど多数いて、その影響分野は歴史学、文化人類学、社会学、精神分析学、文学、映画、芸術など多岐にわたる。

ソシュールの何が刺激的だったかと言うと、「言語の恣意性」を見出すことができた思考法と観察法だった。それは考える主体を超越しようとする「メタ認知的な思考法」である。そしてもうひとつは、事や物を中心から演繹的に見て普遍性や必然性を確認するのではなく「事や物のそれぞれの差異に着目する比較相対の観察法」なのだ。

フーコーは、ソシュールが利用した「メタ認知的な思考法」を発展拡張させて、知識を生む時代の集合的とも深層的とも言える「認知体系と知の枠組(エピステーメー)」を考え出した。そして、エピステーメーにより歴史を観察することで、歴史の発展には一貫性も連続性もないことに疑問を投げかけ、歴史には断絶も非連続性もあると「断続史観」を打ち出すのだった。(つづく)


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日出丸
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