スマホを捨てよ、散歩に出よう
このタイトルは、寺山修司の「書を捨てよ、町へ出よう」をもじった、何のひねりもない、ただカッコつけたいだけなのがバレバレのちょっとアジテイト気味なタイトルだ。カッコつけついでに、ちょっと開き直って情報オーバーロード(情報過多・情報疲労)が大変らしいということをモチーフに記事を書いてみたい。
情報オーバーロードとは大海原を手漕ぎボートで挑むことである
かつての巷間に飛び交う情報と言えば、神話や物語のことだった。
印刷技術もないのだから書物もない。
通信手段もないのだからインターネットもない。
そんな時代では情報をどうやって伝えていたのか?
口伝えである。文字も使っていたが、せいぜい石壁にギリシャ文字を刻んでおくくらいなもので、メインは語りだった。
「簡単便利即時」がモットーの情報化社会を知る由もない時代にあっては、ものを語ることが「生命活動」そのものであった。
その生命活動の結果伝えられたのが、神話であり物語で、物語は口伝により人々の心の中に残ったのだった。
ところが今は、神話や物語だけを語り聞いていればいい時代ではない。
スマホには通知機能というものがあって、新しい情報が到着するとスマホは不自然な音を鳴らしたり身震いしたりする。通知機能だけに飽き足らない人のために、ゴシップや都市伝説など色々な情報が探せる仕組みもあり、昭和の発明家もびっくりな「テレビ電話」もできるようになっている。
スマホに言わせれば、情報は無限の広がりをもつが、画面とスピーカー越しに、視覚と聴覚だけで大量の情報を享受できるとても便利な代物だ。おまけに情報は全方位的で、フェイク動画まで網羅している親切設計である。
口伝ではそういうわけにはいかない。
古代人と現代人の情報量の違いについて研究したいものだが、古代人が一生に3つの神話を記憶していたのが平均的な情報処理スピードとして、現代人の情報処理スピードに追い付き追い越すには、何十回生まれ変わっても無理だろう。ちなみに、現代人が1日に触れる情報量は江戸時代の一年分、平安時代の一生分らしい。
現代人はとにかく情報に忙しい。
先程古代人と現代人の情報量の違いを比較したが、古代人と現代人の脳の機能にはそれほど差がない。情報技術は見事な発展を遂げたが、脳はそれに見合った進化を遂げていないというのが常識的な見立てだ。
人間が言語を取り扱える脳を獲得したのは、長い時間をかけての進化論的自然淘汰の結果だ。現在の情報網を支えているコンピュータはプログラム言語によって制御されているが、人間の脳の言語機能のなせる業でもある。
しかし、皮肉なことに、情報技術の発展と情報量の増加のスピードを情報の進化とすれば、その情報の進化は脳の進化をすでに超越している。ここに「もう一つのシンギュラリティ」があると言ったら、多くの技術者や学者に無視されるだろう。ついでに犬や猫にも相手にされないことは言うまでもない。
情報の海は大海原のごとく激しく暴れまわっているが、人間の脳は小さな小さな手漕ぎボートのままだ。これが情報オーバーロード(情報過多・情報疲労)の構造的原因である。それが故に、平均睡眠時間は減るし、精神疾患も増えているという。
情報の海の嵐を鎮めようと加持祈祷をしても、大海原は火のごとくますます燃え盛るだけで逆効果は火を見るよりも明らかである。この情報の進化の流れは誰にも止めることはできない。情報のエントロピーを抑えることができないのなら、人間の側が変わるしかない。と言っても、脳のスペックと海馬のメモリは、パソコンのパーツを交換するようにはいかない。
ではどうすればいいのか?
私は精神科医ではないので、ただの「精神論」しか言えない。
古代の人々は「救いのための物語」を求めたが、情報オーバーロードと闘う現代戦士に必要なのは、救いの祈りを捧げることではない。まともに闘って勝てぬ「暴れ海」に真っ向勝負するのではなく、逃げるのである。そして、癒しを求めるのだ。これを情報化社会の「逃走論」と言う。
この闘争論、いや、失礼。
この逃走論を端的に表現したのが、「スマホを捨てよ、散歩に出よう」である。
誰にでも効く処方箋:「デジタルデトックス」
ここに誰にでも処方できる「デジタルデトックス」という癒しの処方箋がある。
都会の喧騒から離れ、自然豊かな田舎に行きたい。
都会は便利で、田舎は不便だが、それでも自然豊かな田舎に行って、キャンプやグランピングを楽しむ。
以下のような、スマホから離れて、自然豊かな環境で、いろいろなアクティビティを楽しむ取り組みもあるらしい。
ちなみに、
だそうだ。
難易度高めな処方箋:「瞑想」とか「マインドフルネス」とか
デジタルデトックスは情報から物理的に逃走することだが、「精神」を情報から逃がし無意識に近い状態にすることも可能だ。これを「瞑想」とか「マインドフルネス」と言う。
私は心を落ち着かせようすると、すぐに「ビールを飲みたい」から「ビールを飲むべきだ」からの「よし!ビールを飲もう!」の思考の無限ループに入るので、「瞑想」とか「マインドフルネス」に不向きだと思っているが、瞑想を教えている知己朋友はいる。
瞑想が不向きな自分が言うのも気が引けるが、瞑想を教え普及させようとしている先生の姿勢には頭が下がる。
彼によると、脳は周波を発しているが、周波数が低いほど、精神が落ち着き、癒されている状態だそうだ。
逆に、情報をたくさんインプットして集中して情報処理をしている時は、脳が活発に働き、脳からはベータ波が出るらしい。ベータ波は13〜30ヘルツの間の高い周波数で、脳の活動が活発であればあるほど、高い周波数を示す。
情報オーバーロードは、脳が休むことなく、活発な脳活動が常態化していて、脳は体全体の20%のエネルギーを消費しているので、自覚はなくても、脳が相当疲労している状態のことだ。
この脳がリラックスをすると、脳からはアルファ波が出る。アルファ波は8〜13ヘルツの間の低い周波数。ちなみに、アルファ波よりさらに低い周波数にシータ波(4〜7ヘルツの間)があり、レム睡眠や夢とも関連していると言われているようだが、彼が教えている瞑想は、このシータ波の出る深いリラックス状態を目標としたものだと言っていた。
科学的なメカニズムはともかく、「瞑想」とか「マインドフルネス」が疲れた脳を癒してくれそうだ。
今回却下となった処方箋:「癒し動画」
もしこんな動画がたくさんあったら、癒されてずっと見ていられる気がするw
しかしここで水を差すようなことを言わなければならない。まさに水掛け論である。
情報オーバーロードの原因が情報の過剰処理であるとすれば、デジタル情報過多の状態に「癒し動画」という「デジタル情報」をさらに接種したら逆効果ではないかという疑問がわいてくる。仮に癒しになっても、脳の疲れが解消されるのかはわからない。
そもそも「癒し動画」を見るということは、デジタル情報に積極的にアプローチすることであり、反逃走論に該当するので、処方箋としては却下とするが、却下されるとさらに見たくなるのが犬の「癒し動画」である。
ちなみにこれも逃走論とは関係のないことだが、デジタルデバイスから発せられるブルーライトは、目の疲れのみならず、視覚からの刺激に脳が常にさらされることになり、脳に疲労を与えるらしい。
スマホを捨てよ、散歩に出よう
「デジタルデトックス」や「瞑想」などについて検討してきたが、どうも自分にとっては敷居が高く現実的でない気がする。
「スマホ脳」を書いたアンデシュ・ハンセン精神科医は、運動することが一番だと言っている。そこで、運動音痴な私にもできそうだという逃走論的結論が、「スマホを捨てよ、散歩に出よう」である。つまり「スマホを持たずに、散歩に出かける」ということだ。逃走論的にはやや積極性に欠けるが、これが現実的な落としどころだろう。
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