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「日本仏教」と「止観」の接点 その7

栄西さんの戦略

日本に宋での仏教トレンドである
「禅」をはじめてもたらした栄西さんは、
どちらかというと日本の仏教に
如何に禅を根付かせるかを第一に考えていました。

したがって、彼が執った方法論は、
当時の宋王朝が執っていた「宥和」という方策でした。

栄西さんはとにかく「日本に禅を普及させたい」
というスタンスを執っていました。
栄西さんは並外れたバランス意識や経済感覚もあり、
北条政子や源頼家をも味方に付けられる政治的な才覚もあったのです。

 栄西さんが開山したのは京都の建仁寺ですが、
この寺は比叡山延暦寺の末寺としての位置づけから始まりました。
しかしながら、この建仁寺は
天台、真言、そして臨済禅の三宗兼学の道場として発足したのです。
ですから、栄西さん自体は天台密教葉上流てんだいみっきょうようじょうりゅうという密教系譜の「祖」でもありました。

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 栄西さんはぶっちゃけ、「他勢力との諍い」を避けまくった人でした。
さすがにこの頃になると、かつて空海さんや最澄さんの初志とは別に、
天台も真言も時の権力と深く関わっていました。

こう言ってはなんですが、権力と宗教って言うのは、
その根本的な性格上、どうしても「癒着」する事は無理からぬ事なのです。

いくら弁明したとしても、
たとえば「憲法」とか「民主主義」みたいな概念は、
ほとんど宗教と言っていいと考えられるからです。

すなわち、「信ずるもの」のあり方、
これが人が生きる上でどうしようもない宿命でもあるからなのです。

 まぁ、このあたりの社会学的なメカニズムについては、
後の講義に任せるとしましょう。

で、本題に戻ります。

栄西さんが執った戦略とは、
「何を言われようがどういう方法であっても、
かならず日本に禅宗を根付かせる、しかも合法的に。」

というミッションでした。

当時の日本にとっては、南都の六宗、
そして真言、天台以外の「宗教」は
いわば邪道であり念仏衆や禅というものは
いわば「新興宗教」であり、邪道扱いでした。

ですから、法然さんも親鸞さんも、
旧勢力から厳しい弾圧を受けました。
栄西さんは時の権力と同調することで
「禅」を日本に根付かせようと考えたのです。

栄西さんが禅の普及を始めると、
案の定最大既成勢力の「比叡山」が弾圧を始めました。
この勢力は座主がもともと皇族系でしたので、
朝廷の加護があったのです。

そこで栄西さんは建仁寺を建て、鎌倉幕府に接近します。
そして幕府の庇護を受け、布教を合法化しました。
禅の宗風は武士の気風に合っていたというのも大きな理由でした。

 ここまで述べると、
栄西さんは実に「政治家」であったと言えるのかも知れません。

しかしながら、「日本に禅を根付かせる」
という強い理念があったことはたしかであり、
そのおかげで日本における「禅宗」が確立したと言えましょう。

栄西さんの著書に「未来記みらいき」というものがありますが、
その中で50年後、100年後に禅が興隆するであろう
という予言が示されていますが、まさにその通りになっています。

その点で言えば、栄西さんは、ロングスパンで
ものを考えられる事ができた、
宗教的天才であったとも考えられるのです。
それに対して、ひたすら愚直に禅を追求したのが道元さんでした。

CONTINUE


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