ムダに教養がつくかも知れない不定期な雑学の連載(講義中は寝ないこと)~日本の伝統、「神道」とは何かを解説します。 第3講
国家制度としての「神道」とは
さて、元号も代わり、「令和」と言う御代になりましたけれども、この代替わり、たとえば先帝陛下は、伊勢神宮に自らの退位報告をなさりにで向かわれたわけです。ある意味では、天皇制と神道は深い関係があるのは、誰がなんと言おうと、紛れもない事実でございます。あたしゃ評価抜きでこのことを厳粛にとらえたいと考えております。
そもそも「神社」という存在が、国の制度として位置づけられるのは、例えば諸外国における宗教のあり方とも合致しますし、我が国においても例外ではありません。例えば古代律令制において、「神社」がどのように位置づけられたのかをざくっと解説してみましょう。
神社そのものが制度として、国家の登録のもと体系化されたのは、平安時代の「延喜式」がはじめだといわれます。ここで神社の登録にあたり、神社の格付けが行われ、その格付けに載った神社が「式内社」といわれました。延喜式には神名帳とよばれる神社の一覧がありまして、これに記載されている神社が国の庇護をもらった神社でした。
その数は2861社。さらに、この式内社にも「官幣社」と「国幣社」に分けられ、前者は神祇官の直轄、後者は国司の管轄であり、さらにいうと官幣でも官幣大社、官幣小社、国幣大社、国幣小社、というように細かく格付けされておりました。
管理体制としての「格付け」
すなわち、古来の神社は統制の性格もあったのかもしれません。まぁ、これを活用したことについては後述することにして、このように「神社」自体はこのような体系化を進めていったわけです。
この傾向は時代を経てさらに進みます。例えば、平安時代の中頃には、祭りの際に天皇から勅使が神社に送られることがしばしばあって、こういった勅使が送られる神社が22件選ばれました。
当然この二十二社は最も格式が高いという位置づけがされたんですね。また、地方の国幣社においても格付けが行われ、一宮、二宮、三宮というように呼び習わしていきました。
これがもっと体系化されたのは、なんと「明治」に入ってからなのです。時の明治新政府の目標は言ってみれば「天皇大権」の確立を目指しました。すなわち王政復古の後ろ盾として「国家神道」という概念を作ろうとしたんです。これは絶対王政における「王権神授説」に通じるものがありますね。
まぁ、これの背景には江戸時代から続く尊皇攘夷思想が根底にあったとも考えられます。「やまとこころ」もこのときに生まれた概念です。
天皇制を「権威」にするための「国家神道」制度
この方針を元に、明治政府は「神道」の体系化を始めました。すなわち「神社格付け」を整理したということです。
その具体内容をいうと、延喜式で格付けされた神社の他に、靖国神社など国に貢献した人々を祀る「別格官幣社」を設定したんです。
これらをひっくるめて「官社」とし、国の神祇官の管轄としました。で、その他の小さな神社は地方官の管轄となり、「諸社」という位置づけがなされました。
しかも、この諸社にも格付けがあり、府社、縣社、郷社、村社、無格社に分類されました。
当然ながらこれらの格付けで国や地方の待遇が違い、官幣社や国幣社は国から幣串料をうけ、無格社以外の諸社は府県などから幣串料の寄進を受けていました。
「宗教法人」としての「神社」
しかしながら、第二次大戦後これらは一転し、国家と神社の関係を危険視したGHQによって、神社の国家管理が禁止され、結果としてこれらの社格は消滅しました。
したがって現状ではそれぞれの神社は、おのおのが宗教法人として組織されることになりました。
すなわち全国8万5千の神社は神社本庁の管轄にある、宗教法人という立場にあります。
では、次講は、「そもそも日本人にとって、神様って何だろう?」という課題について講じていくことにします。 大晦日のあと1回で修講です。
良いお年を、神様と共にお迎えください。
お疲れ様でした。