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人はどうして「苦悩」するのでしょう

前回で「苦とは人の存在があるが故に生じる」
という意味で存在要素である「五薀」というものの解説をざっくりとしました。
さらには、「煩悩」が起こる要因にも触れました
では、苦が生まれるプロセスを考えてみましょう。

苦の根源とは何でしょうね


 ブッダはこの世はそもそも「空」であるが、
「原因と様々なものの関わり合い(縁起)とで作られている。
と言うことを述べています。

 これをひっくるめて「因縁」と呼んでいます。
もちろんその筋の方々がお使いになる
「因縁をつける」とは全く違った意味でございます。

 この因縁はサイクルがあって、12個のステージがあり、
人間の心の変化の段階であるとされ、
「内縁起」という言い方もいたします。

 ここではいわゆる「十二因縁」という言い方で
くくることにします。この内容については」
前に、「教養講座」でお示ししましたが

講義中「意識を失った」

のにも関わらず、代返で単位だけは取ったひと向けの
特別講義であることをお忘れなく((^▽^)

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 さて、この十二の段階をそれぞれ申しますと、
まずは「無明」から始まり、
行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死→無明
 の十二のステージでございます。

 これらのいずれのステージも「苦」の根源となる因を持ち、
すなわちこれから生じる縁を持って、
自分の心の迷いを生じた結果、「苦悩」すると言うことなのです。

 また、これらはくるくる回っているので、
老死の次は再び無明に帰りますよ。
というわけです。

 さて、この意味不明な漢字は何だ?
という御仁のために、
一つ一つの心のステージについて解説したしましょう。

まず「無明」「行」「識」

これは正しい世界観や人生観を持たない状態を言います。
つまり、何も知らない無知の状態を言います。

「道徳崩れてんなぁ・・」という者どもが時折おりますけれど、
まさにその状態でございます。
言うならば自分が無知であることを
知らないこと自体が無明
とも言います。
かのソクラテスが「無知の知」を説きましたが
まさにこのことと通じます。

 行とは、

自分の行いや、人間が過去の歴史から
積み上げてきたものを言います。
したがって、「無明のまま」に行った行為って、
どういうものになるか想像できましょう。

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そうです、
その行為によって次の「識」が来ます。
それはどんなことかというと
認識することを言います。いわゆる主観というものです。

 眼・耳・鼻・舌・身体・意識のことを言います
これでもって私たちは「自分の存在」を認識するわけです。

あたしたちが存在であると認識する対象?

その主体は「名色」
これらで構成される認識の対象です。

つまり鏡に映る自分であるとか、
周りの現象であるとかそういうものです。
これらを感じ取るための器官そのものが
「六処」(六入とか六根という言い方もあります)

 こういった6つの識とそれぞれ6つの色(境)、
それを感覚とする6つの根が
それぞれに複雑に関係し合うことが
あたしたちが感じる認識の元になります。

つまり痛いとか熱いとかそういう感覚をいい
このことを「触」といいます。

 熱いと手を引っ込めたり、
いたい!と叫んだりするのはこの段階です。
物事をはっきりと認識した状態です。


そして、「感情」が生まれる

 この感覚を受けて、初めて感情がおこります。
つまり快不快が生まれます。

 これには3つあって
苦・楽・不苦不楽の三受と呼ばれます。
不苦不楽は「何とも思わない」事です。
現代日本人が得意とする
「どちらでもない」

 つぎに生まれるのは、
このことを受けて「欲望」が生まれることです。
つまり、感情を受けてそのことにとらわれてしまう。
すなわち執着することです。

 執着すればもうそれを手放したくないという心が起こります。
また、反対にいやなものから離れたいと思うことも起こります。
これが「取」

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誰もが平等に迎える結末

 このように、人によって
それぞれ違った感情や主張を生み出します。
それで、どれがいいとか悪いとか言う
差別の心が生まれるんですね。

これが「有」という状態です。

 ですから、こういった
どうにもならないものを背負って
人は生きていく事になるんです。=「生」

 こういった生き方の末には
老いの苦しみに加え、
今までなしてきたことに対する
後悔の念に苦しむことになるか、
もしくはやってきたことが元で、
悲惨な暮らしを迎え
やがて死んでいくということになります。

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苦悩の正体

 また振り出しからやり直しってなことで 
これは何も一生だと言うことではなく。
人生の中や日々の暮らしの中でも
短いサイクルでこれが起こっちゃうのだ
と言うことです。

したがって無知のままだと
無知に無知の結果を重ね、
悪い業を重ねてしまう結果になるのだ
と言うことです。

どっかの新興宗教なんかは、
だから壺を買えとかお布施しろって事になるんですが、
こういうのは、まやかしなんでございます。

 なぜなら、これらはほかが救ってくれるわけではなく、
自分自身で断ち切らないと
いつまでも続きますよって言うことに他なりません。

したがって、この因縁を繰り返す様を、
その無明や行の働きから
6つの道を繰り返すとされています。

それが「六道」というもので、
いわゆる「煩悩」と呼ばれる
これら苦の根源となるものでございます。

 仏教ではこれは108あるといわれていますが、
108とは言ってみれば
「無限にある」という意味と同じなのでございます。

 これらから離れるためには、
根源である「無明」を滅することにある。
というわけですが、

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無明を滅するということは、
「目覚める(悟りをひらく)」
つまり「ブッダ」になることなのだと、
ゴータマ=ブッダが説いたとされたのです。

従って、ブッダ(目覚めた人)は
だれでもなることができ、
過去にも未来にも存在することになる
と言うわけです。

これが、「大乗仏教」の根源的な考えになりました。

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