体の在り方を考える
2024年7月20日土曜、神保町にあるオルタナティブスペース「PARA」にて、2つのプログラムを体験した。その記録。
1 きっかけ
今年3月に体調を崩し、その時点での体の状態は「言葉が頭の中でパンパンに詰まっていて、とても不健康」というものであった。
それを改善するには、体へアプローチすることが有効と思われ、体に関するワークショップへ通い始めた。
そのほぐれ始めた体は、「完成されていない上演」に興味を持った。
現在通っているワークショップ(以下WS)と参加履歴。
これらに関しては、後日記録して行く。
『中国古典を「身体」で読みなおす』2024.5 - 8
講師:岩渕貞太
『無理しない演劇のWS』特別コース
ファシリテーター:本橋龍(ウンゲツィーファ)2024.5 - 8
〈戯曲〉を〈良く〉読むためのワークショップ
ファシリテーター:日和下駄(円盤に乗る派)2024.6.30
2 「民俗芸能から再考する日本の藝術(アート)」
この日のメインは17時からの「上演のタネをまく」だったが、タイトルから何が起こるかわからないこちらにも参加することにした。
正直、受講料はなかなかだなと思いつつ、たしかに他に類のない内容だと思い、見学したくなった。
会場に着くと、縦長の空間の7割程度のスペースに上演用の椅子が4つ、あとの3割が客席となっていた。時刻になると出演者と思われる4人が現れ、椅子に3人/奥の窓際に1人という配置になった。そこへ講師の武田氏が加わり(椅子)、「上演」が始まった。
無音の中、みなスローモーションに動き出し、それがしばらく続いた。その時間と動きが心地よく、いつまでも見ていられた。
先に私の解釈を言わせてもらえば、種子から発芽する過程を人の体で表現しているように見え、それが何を意味するのかよりも、そのゆっくりとした動きは演劇における高度なテクニックを必要とせず、台詞もなく、人に見せる「上演」というものが持つハードルからするりと抜けている印象を受けた。
あまり詳しくはないので詳細には言及できないが、しばらくその残響のような動きを眺めていたら、太田省吾の「水の駅」を思い出した。
この時点でタイトルにある「民俗芸能」のニュアンスは感じられず、目の前でパフォーマンスが始まったなという印象に留まった。終演後の振り返りでは、神保町という町を身体で表象した動きとのこと。
30分という上演時間や、イベント告知にある「終演後の振り返りにもご参加いただけます。」という情報から、私は勝手にシンポジウム的なイメージを抱いてしまっていたのだが、まさかこのような内容の講座の成果発表が目の前で展開される「上演」になるとは思わず、少々面食らった。
半ば辺り、最前の観客から20cm近くのところまで出演者が迫る時間があった。何をしているのかはわからなかったが、繊細で丁寧な手つきで抽象的な何かを行う所作は、単純に美しいと思った。
それぞれの出演者が「上演」に対してどれだけのスキルや考えを持っているのか全く予備知識のないまま体験することとなったが、各々がすでに持っている意志や考えや感覚が、何気ない視線や抽象的で繊細な動きへダイレクトに反映されているように見えた。
加えて「見せている」意識を強く感じる体と、そうは感じない体とを比べると、後者の方へ目が向くことも分かった。恐らくこれは今現在の私の感受性が拾う観点なのだろうが、そこに作為を感じない動きに大きな魅力を感じた。この魅力はいまのところ言語化不可能だし、試みたところで何かを掴める感じがしない。だが恐らくこの私の体で強く感じたこの時の感覚は、その後の私の考えに大きく影響するだろうと思う。
3 「上演のタネをまく」
先に紹介したウンゲツィーファ 本橋龍氏のWSは、最終日に無料カンパ制の公演が設定されている。私はこれに出演者+企画・デザイン(当日パンフレット&チラシ)として関わっているが、日が経つにつれ、勝手に体がザワザワし始めた。おそらく、初めての演劇公演にカラダが落ち着かないのだと思う。無理はない。
(WSの基本姿勢は “無理しない”だが、私の体は既に制御下にない)
その落ち着かないカラダの準備として、
“ 3人以上の人が集まり、15分で「上演」をつくる ”
“ しかも他人と! ”
というこの企画に、自分の置かれた状況を重ね、
少しでも落ち着こうとした。
最近手にとった本には、こう書かれていた。
共感しかない。
鑑賞後の結論から言うと、とても勉強になった。
特に強く印象に残ったのは、9つのチームで見せ方が異なるため、舞台転換ごとにお客さん自身に椅子や座布団を持って移動してもらい、同じ空間の中で客席と舞台が前後左右自由に変わる、変幻自在な舞台空間を作ってしまっていることだった。来ているお客さんは、おそらく出演者の友人・知人だろうし、この3時間の企画につきあってくれる人。なのだから、ノリがよくない訳がない。その客席大移動を実現させるには、PARAスタッフ中條さんの細かな配慮が大きいと思う。当日パンフレット裏のその真摯なコメントに、“集団創作や現場でのコミュニケーションにおける「演劇」の汎用可能性の高さを感じる”とあり、機会があれば詳しく伺いたくなった。
ひとつひとつの演目について一行感想をしていくと、
①あなたとわたしのナンセンス格闘技
客が囲む横に長いステージ構成/終始静的な仏壇組立作業に釘付け
②「PSYCHO-PASS Lecture BATTLE Performance 」
キャラギャップ著しい演者双方のよさを活かせていてお見事
③二つが揺れるためのグッド・プラクティス
人声でなく糸声/個人の抱える内的なものを「上演」すること
④ミュージカルのタネ
枠があるとやりやすい?/演ってる人が楽しそう+こちらも/CMっぽい
⑤対価と仕草
モノローグ+壁サイズの仕切りが移動する時間/映像的な作り方
⑥コントを演劇に近づける
ここはNSCなのだろうか/演劇とコントの違いは「わかりやすさ」?
⑦見分けがつかないくらいとても白い
最近、上演中にクッキングするのが流行っているのだろうか
⑧「レンチキュラー、パラ、トランスファー」
台詞の量がとてつもない/言葉を聞かせるにはやはりこのやり方なのか
⑨自覚なき演劇を作る(ゲーム編)
ハンコのアドリブがグルーヴしていた/企画・発想てんこ盛り
4 まとめ
見せる順番の影響はあると思った。
少し前までよく寄席に行っていたから、
その歴史は古いんだろうとも思った。
講評で川口智子さんの一言一言がキレキレで、
指導を受けている人たちを羨ましく思った。
額田さんの講評は優しかった。
そう言われると観たくなるなと思わせるコメントをしていた。
講師の方々のコメントは有料級なので、ここでは控えます。
最後に、体の在り方というテーマから考えると、
舞台と現実に共通する「体」に違いはあるのか?と思った。
チラホラとは知人が居たが、その本来の性格は断片しか把握できていない。
けれど、なんとなく好感が持てる人、なんとなく避けたい人は存在した。
その違いは恐らく主観と主観的客観の差の幅にあるように思う。
主観と主観的客観に差が少ない人は、恐らく好感を持てるのだと思う。
だから、思い上がり/ひねくれ/わざとらしさという人間の特有な三様態が露呈してしまっている場合、印象に残らない。むしろ上演を妨害していると言ってもいい。私は演技能力にはそれほど関心がないので言及はしないが、演者がその場に適した体の在り方を判断できる状態というのは、主観と主観的客観に差がない=ピントが合っているということなのだろうと思う。
で、結局あなたは何者なの?
はい。
私は現在、「 体 / 言葉 / 声 」の研究をしている一庶民です。
映画美学校 言語表現コース ことばの学校 一期生(2021-2022 / 基礎+演習)でもあります。ですから、頭が言葉でパンパンになってしまったようでもあります。
今後は自身の研究テーマに沿って活動しつつ、来年一月のZINE FEST TOKYOへ出展し、今年得た研究成果の販売ができるように制作を進めています。
そ・の・ま・え・に
2024年8月4日(日)、
南林間でお会いしましょう。
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