【いまさらレビュー】映画:さよならのとき(カナダ・ノルウェー、2014年)
今回は、独特のリズム感と北欧の起伏のある風景が印象的な『さよならのとき』について、書き残しておきたいと思います。
監督・脚本は同作が監督デビュー作となるアンドリュー・ハキュリアック。主人公をノルウェー出身のダグニー・バッカー・ヨンセンが儚く演じています。カナダでは2015年LEO賞をはじめいくつかの映画賞を受賞。国内で高く評価された作品です。
おはなし
舞台は北欧。独特の冷たい空気感が映画全体を支配する。また、おはなしを伝えることよりも、エピソードを積み重ねることに主眼を置いた作品。主人公たちの突飛な行動・発言もあり、好みが分かれるところか。
車を運転する一人称カットから始まる。車で順調に移動中、突如まばゆい光に包まれる…
主人公のダグニーは妹を前に、実家を出て変化を求めた人生を送ると決意。決意表明として湖に飛び込む。
遠戚で幼馴染のベングドの工具店で働くため、親友のエンブラが住む町へと出てきたダグニー。1週間眠れない彼氏を紹介されたり、エンブラと旧交を温めるが、折悪しくエンブラは引っ越す直前。別れを惜しみつつ、ベングドとの生活が始まる。
ベングドとの新生活は順調そうに思えたが、ベングドは極端なコミュ障。熱い恋愛感情を伝えられるものの、気持ちは伝わらない。ダグニーは拒絶しベングドのもとを離れる。
身を寄せたのは祖父の家。ある夜、パーティーで出会った男性アンドリューとひと晩語り明かす。翌朝、祖父から祖母の最期の様子を聞き次第に気持ちが和らぐ。
そして車を借り帰郷するエンブラを飛行場まで迎えに行く途中、突如まばゆい光に包まれる…原発の大事故により命を落としたことを示唆し物語は終わる。
“走馬灯のように”とは日本的な表現か。妹、エンブラ、エンブラの彼氏、ベングド、祖父…ダグニーと触れ合ったいく人かの記憶が、末期のダグニーの脳裏を通り過ぎていく。必ずしも豊かな時間ではなかったのが、あまりにも切ない。若者の成長物語と呼ぶには、悲しすぎる。
なお私自身、北欧の街の位置関係やら土地柄はさっぱりわからないので、もしかすると理解が違っている可能性がある。ご注意あれ。
We are the Cityというバンド
実は同作の監督・脚本を務めたアンドリュー・ハキュリアックは、2020年に活動を休止したバンクーバーのロックバンド、We are the Cityのドラムスでもある。映画はWe are the Cityのアルバム『VIOLENT』(2013年)から展開したものだ。
サウンドは少しプログレテイストを加えたライトなオルタナロック。世界的にメジャーな存在になれなかったのは惜しまれる。興味がある方はYouTubeやBandcampで聴くことができるので、探してみていただきたい。
問題のアルバム「VIOLENT(映画さよならのときの原題)」は2013年、彼らの2枚目のフルアルバムとしてリリースされた。YouTubeで収録曲のMVを見ることができるが、映画さよならのときと同じ映像が見て取れるのは面白い。(※MVの制作は映画と同じAmazing Factory Productionsが手掛けた)
ふわふわと無重力のようにいろんなものが浮いているシーンや、ダグニーとアンドリューが夜を明かすシーンとか。
また、映画を通じて詩のようだと感じるのは、We are the Cityの音楽性と直結していたことを考えると納得である。
「それは水のようで、電気のようで、冷蔵庫のうなりのようで」(映画さよならのとき)
「こんな風に生きなきゃいけないわけじゃないー同じ気がする
すべてが揺れている、まるで波の上ー同じ気がする
安心など見つけられない
プールの底、洞窟の暗闇はすべての蔑みを暴く
まったく同じ気がする」(拙訳、Bottom of the Lake:We are the City)
なんだか切ない。楽曲の歌詞にはどちらかというとネガティブな死生観が根底に流れているように思う。それは映画にも通ずる。
ハキュリアック監督は2019年に『Ash』、2021年に『SARS-CoV-2』を手掛けた。また音楽プロデューサー兼パフォーマーとしても手腕を発揮しているそうだ。いわゆるマルチタレントである。今後も独自の切り口で作品を発表し続けてくれるだろう。
言語の性格かはわからないが、独特のリズム感があり、なじめるかどうかは意見が分かれると思う。のめり込もうとするとイラッとくるかも。そのためややとっつきにくいタイプではあるが、落ち着いた気分の時に観るのが吉かもしれない。