売れる本屋のコツ
また何やら盛大に愚かなことを考え始めたお役所のウワサを耳にした。
※「盛大に」という枕詞は、「考え始めた」に係るのではなく、「愚かな」に係ることは念のため付け加えておこう。
1人1人は精鋭なのだと思う。なぜ精鋭は「省庁」の名の下に纏まると堆肥の山に変わり果てるのだろうか。人類史上永遠の謎である。
「売れる本屋のコツ教えます」
なるものをニュースで目にした。
それはぜひとも知りたい。
20年本屋をやってきていろんな挑戦をして尽く失敗とは言わないが、成功してはこなかった。トライアンドエラーエラーエラー(一つのトライにエラー三つ)の連続だ。
私如きの頭で考えつかない「本が売れる秘策」を、東大やオックスブリッジあたりで学ばれた秀才が、御下賜なさる、と。
ありがたや。
いったい、どんな魔法だろうか。
何にかけても美味しくなるマヨネーズみたいな?
ガビガビ肌でもしっとりモチモチになるサブリマージュ・レクストレドゥニュイコンサントレみたいな?
なんか知らないけど汚れた地球が一振りでキレイになっちゃうコスモクリーナーDみたいな?
とにかく一振りでサァッと目の前が開けるような、「ああ、そんなこと思い付かなかった!」というような、本屋が継続してやっていける、しかも誰も犠牲になることなく、みんながハッピーになる魔法の秘策とは一体。
出版界全てとは言わないが、本屋経営が上向くことに反対する業界人はまずいないだろう。とすれば、この30年ほどひたすら下降線を辿るばかりでなす術もなくただ見届けるしかできなかったこのオワコンと言われる出版界の、希望の光となるかもしれない。
ありがたや。
記事を早速、謹んで拝読する。ワクワク。
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記事によると、プロジェクトチームが立ち上がりこれから議論を進めていくとのことで具体的な施策はこれからだと。期待している。
常に諦観を若干含む観音菩薩のような目で。
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ハーバード修士なんていう斉藤健氏だから何か秘策があるのかもと思ったが、まあ良い。ひとまずこれから。観音菩薩は見守ろう。
願わくばリアルな書店経営を知らない年配の難関大学出身のおじさんたちが適当な書店像を頭の中で勝手に描いて繰り出すような唐変木な施策が出ませんように。
近年の言論空間を眺めると、書店の努力不足の指摘すら透けて見える時があるくらいだし。
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本屋について。
私は情熱しか誇れるところ無いまま本屋をやっているが、もしも書店を社会が必要としないならば、書店を潔く辞めた方が良いと思っている。
川渡しという職業が昔あった。インフラの担い手とした立派な職業だが、川に橋が渡されたり空路が整えられたりすると不要になる。現在ではもはやヴェネツィアのゴンドリエーレのように伝統としての存在意義しかない。
このように時代の流れにより無くなった職業なんてごまんとある。その職業の貴賤には無関係に。
因みに最古の職業であるプッタネスカ、これは他の追随を許さない、そして今後も人が人である限り無くならない職業であると断言できる。あまりの普遍性に舌を巻く。
だから、時代の徒花となって散る運命ならば甘受する。何が何でも書店が無いといけない、という浅い論調には、ハッキリと距離を置きたい。
しかし、同時に浅い思考で「本屋なんて不要なんだから無くなればいい」と新自由主義的(注:日本的に誤った概念)に一刀両断されるのも違うと思う。
要は、もう少し丁寧に、深く、何層にもレイヤーを重ねて、対話したい、という希望である。
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私のアグレッシブ過ぎるまたはコケティッシュ過ぎる論調にはおそらく誰も同意しないだろうが、
現在の自民党が与党であり続ける限り、売れる本屋なんて絵空事でしかないと思う。
だって本を売れなくしている原因が自民党という組織そのものにあるから。
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「何もかも中央政府、権力者のせいにするな」と人は言う。
でも実は新自由主義を誤った解釈をしながら短期的視点のみで検証もなく無闇に無理やりさまざまな政策を推し進めてきた中央政府の罪は重い。そしてあろうことか誰も責任を取らない。
もちろん現政府のせいだけではない。連綿と続く独裁的な指向が、段々と取り返しのつかないところまでにじり寄っている気がする。
最初はごく些細な発芽であった。
しかし徐々に培養され幹を太くし今ではたくさんの人たちの頭上に大きな影を落としている程に強大に成長した独裁制。
第三者機関の存在を許さず
三権分立を危うくし
ジャーナリズムを抑え込み
貴族制が連綿と続く
そんな中央政府がいつの間にか出来上がってしまった。
そしてそれを後押ししてきた人たちにも責任はある。
斉藤健氏のような高齢男性が厚労省にいることが、本が売れない原因の一つと言えば、飛躍しすぎと人は言う。
だが風が吹けば桶屋が儲かる的に考え尽くしてゆけば、本がなぜ売れないかは、最終的に行き着く先は、独裁政治、強権性、ボーイズクラブ、こういったことが書籍業界の足を引っ張っているのは間違いない。
そして斉藤健氏の所属している団体のほとんどが、(例えば旧統一教会、日本会議、親学、靖国神社参拝する会、みたいな団体)
まさしく書籍が売れない原因を作り出している。
書籍業界の興隆には単純に考えても、
人の思考の数だけ(つまり人口)の多様性
分厚い中間層
公教育の充実
知識層の拡大
人文学の重要視(他を軽視する意味ではない)
基礎研究重要視
そして
有り体に言えば、市民が主体となる民主主義が不可欠である。
斉藤健氏たち、自民党のほとんどの人が属しているどころか票田として繋がりが深い諸団体の教義は、基本的人権や多様性などに軒並み否定的である。そして経団連のお偉方も、経済的な分断を黙認あるいは良しとしている(ようにしか見えない)。
私は自他共に認める穏便保守であるから、これらの人たちが、総とっかえとは言わないが、半分でも志のある人に変わったら、相当、民主主義は進むのではないかと思う。
そして民主主義が進み、きちんと法に支配され、人権が保障され知識を安心して積める社会、コスパだのタイパだのと政府が口にしない社会が訪れた時、それが本の販売を後押しするのだと思う。
ところが現在は、税金は箱物や大きなイベントに流されて、学術会議任命拒否、稼げる大学、図書館などと人文学軽視の理工科優遇。あまつさえタイムパフォーマンスなどという妄言を中央政府が口にして憚らぬ。
経済界では大企業優遇措置で中小企業は蚊帳の外。
裏金や諸問題はまさに独裁制の現れだが、さらに独裁的なのは閣議決定で割と大切な物事があっさりと決まって行くことである。私には恐ろしさしか感じない。
アメリカ追従の盲目的な軍事の増大も、教育や福祉になかなか予算がつかないのも、女性の人権がなかなか進まないのも、いずれも全て、「中央政府のお歴々に旨みがあるかないか」で決まる。ようにしか見えない。
たかが「選択的夫婦別姓」これほど予算も不要でなんの問題もないことは遅々として進まないが、「共同親権」はサクサク進む。意地でも女性の希望は聞かない頑なな姿勢が顕著である。多様性も無ければ人権意識も欠けている。これでは予算の合理的な配分なんて望めようもないではないか。お金が動脈硬化を起こしている。
日本が経済的に発展していた狂瀾の時代はもう終わった。その時代はなんでもありだったかもしれないが、これからは経済規模も人口も国際的存在も何もかもが収縮して行く国家としての設計を立て直さねばならない。堕ちる時は早い。日本社会は内需が冷え込むのみ。自分たちの人文学的価値を自ら貶めている。
皮肉な話だ。「本屋を応援したい」と言っている議員の存在そのものが本が売れない原因を作り出していて、それらが立法や行政の場からいなくなることが最大の支援になるなんて。
本を売るのは、ケーキやブランド品を売るのとは異なる概念である。
こればかりは、外需に頼れないのである。日本語話者でない人は日本語の本を買わないのだから。日本語話者が日本語ならではの言論空間を構築できるのが出版であると。それを幅広く提案するのが図書館であり書店である。図書館は地方の歴史書を保存したり憲法で保障される学習権や知る権利にも繋がる重要な知の宝庫であるが、書店はもっと社会のダイナミズムを体感できる場所だ。過去というよりは現在を感じそして未来を創り出す、そんな国家の根幹にも関わる場所だと思っている。
本は、ただの情報収集のメディアではない。映像と異なり、見聞きする側の技量を必要とする。技量とまで言わなくても、積極性や面白がれるセンスとでも言おうか。本はボーッとしていては楽しめない。こちらから働きかけが必要だ。ここが、何といっても本の魅力であり、だから、簡単ではない。本はある意味他人と共有するのが難しいのだと思っている。映画やドラマ、音楽など、官能を友人と共有して盛り上がるのと比較すると、本は共有するよりは自己の内在化を得意とするものだと思える。自分との戦い、それは何より、慣れないうちは辛い修行のようかもしれない。
しかし一度手に入れてしまえば転がる石のようにどんどん面白くなっていく。
そしてまた、この内在化は思考の深まりにある一定の成果をもたらすとも思う。
本とは、前述通り、美味しいスイーツを売るようなものではないのだ。ただのコンテンツではない。モノでもない。魅力は自分で見つけるべきモノ。
そこを議論しないまま「売れる本屋」と旗降るのは些か性急である。本が売れるに越したことはないが、応急処置はあくまでも一時的な物でしかない。
本屋はなぜ経営困難なのか。
本屋は社会に必要なのか。
読書推進と言うが、なぜそう思うのか。
本とは何を指すか。
その辺りの議論が為されないまま、「書店を応援」「本を読め」みたいな言葉が1人で歩いているから、本質が掴めないのだとおもっている。
そもそも本が売れるとはどういうことか、そして本とはなんぞや、というところからぜひ、お偉方には学んでから出直してほしい。
本当は書籍が売れようが売れまいがさしたる興味もないのは分かってる。本当に応援する、なんてこれっぽっちも思っていないのも知ってる。もしくは何か自分たちに利益があるから仕方なくやってるのだろう(推測の域を出ません。失礼)。
もしかして、書籍業界のことなんて本当にどうでもいいと思ってるんだろうなという姿を見せつけることによる、こちらのダメージを楽しんでいるサディストの仕草…?
まぁ良い。とにかく興味のあるフリをするならば、見守るのみである。
重ねて言うが、書店だけが何らかの経営的手腕の欠損により不振なのでは一切ない。書店が成り立たないのは社会構造の問題である。書店員の頑張りが足りないのではないことだけは全力で訴えたい。ここから間違えているから、お役所のやることには信用おけないのである。また、例え書店だけを何かしらの方策で救ったとしても、歴史上の小さな粒にしかならず、すぐにダメになる。書店だけ救ったって根本の解決にはならない。
私は現在のところ、書店は街にあったほうがよいと思うし、規模や種類など多様な書店が多数、あることが望ましいと思っている。本とはそういうものだから。そうでなければ出版そのものの価値が揺らぐから。
書店でうまくいってるところなんてない。うちも含めて書店だけでやって行けないから複合的な経営に乗り出すのみである。そしてそれ自体、本というものに対して不誠実な振る舞いなのだと日々思っている。本屋はもっと、シンプルであった方が健全だと。ちなみに図書館の指定管理者制度も、似たような問題を抱えていると思う。
医者や弁護士がそれだけで職業としてやっていくように、書店もオーソドックスな職業に戻りたい。「なんでもかんでもいっちょかみのセカンドワーク」がもたらす弊害に、みんなが気づくのは30年後である。そしてその時に後悔してももう戻らない。
出版社の方々も、どこ吹く風の様子だが、このままだと、
二階元幹事長自身の政治家人生をつづった書籍「ナンバー2の美学 二階俊博の本心」が5000冊、計1045万円、「二階俊博幹事長論」が300冊、30万880円、「最長幹事長」が3000冊、231万円。また「自民党幹事長 二階俊博伝」が300冊で44万8800円など、こんな本ばかりを作らされるハメになりはしないか。
出版社、新聞社、みんな口を揃えて「書店を応援しなくては」と言う。それを私は観音菩薩のように眺めている。(書店経営は菩薩にでもならなければやってられない)
それに政府まで加わって。
注目してもらえるのは嬉しい。
嬉しいけれども、根本から問い直してほしいのと、実態の伴わない応援歌は逆にこちらを疲弊させることを少しでも知ってもらえたらいいのに。
こんなことを書いていたら、本についてもっと書きたくなってきたので、また別の機会に。
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ここは経営的な判断ではなく真剣に議論しないといけない。今の日本の課題は国作りの長期的視点の欠落である。短期的な利益ばかりを追求したからこその今がある。繰り返すが誤った新自由主義である。
日本語の本が利益ばかりを追い求めていった先に果たしてどのような未来が待っているのか、それを、丁寧に議論したい。
まずは、理想を語りたい。
「納税するつもりはございません」の石橋立議員は、「街の本屋さんを元気にして、日本の文化を守る議員連盟」の会長だというのをWikipediaで見つけてしまった。
歴代会長は統一教会や親学などのカルトと繋がりがある。なんの地獄かと思う。
この「書店関係者」は誰だろうか。