『豊かさとは』富と多様性と人道主義
「”富”とは多様性を消費した結果である。」
時間の経過=多様化ポテンシャル⇒多様性⇒統合⇒消費⇒富
ゆえに、力への意志は価値観の統一、国家の統一、種族の統一、民意の統一を望む。
統一された共同体であればより多くの富をより苦労せずに保持できる。
しかし、集団内に富が十分に蓄積されると今度はそれの奪い合いが始まる。外から持ってくるより近くからくすねる方が楽だから。これを阻止するには富が貯まるほど、より強く「個性」を抹消しなければならなくなる。まるで1つの身体を構成する細胞同士のような強い共依存と無個性が要求される。この行程を無限ともいえる回数、成功・失敗を繰り返しているのが「生物」である。
自然は常に全方向的に発散する。この発散が多様性を生む。
そこに指向性を与えるもの、これが「意志」であり、意志が見受けられるものは「生命」と呼ばれる。
その生命が、自然的発散が常時もたらすポテンシャルを消費した結果が「進化」「発展」「文化」などである。
つまり、生命において、その多様性を消費した結果もたらされる「偏重性、統一感」こそが”富”である。
またこの世界は「存在する」という”偏り”において生命的である。
ここで、平等、博愛、自由は生命的ではない。
しかしそれらを「重んじる」人道主義というのは生命的である。
人道主義は{性格、一途の愛、文化}を刈り取ってその腹を満たす。
このような点であらゆる「思想」は”文化”として生命的であり、「ことば」の生命性は”コトダマ”として知られている。
コトダマは「言葉狩り」によって富に変換される。
思想は「洗脳、教育、文化」によって富に変換される。
あらゆる「生命」は多様である限りはことごとく無害であるが、強い偏りが生じた際には少数派に対して想像を絶するほどの脅威となる。
-----[統一化]-[多様化]-[統一化]-[多様化]-----
-----[繁栄]-[衰退]-[繁栄]-[衰退]-----
ゆえに同時点において
「進化」と「平等」は相容れない
「繁栄」と「平和」は相容れない
「長寿」と「活気」は相容れない
「技術」と「純朴」は相容れない
「文明」と「健全」は相容れない
我々が何かを望む時、一方でそれが何を阻害しているのかを正しく理解せねばなるまい。
人間疎外とは無自覚さの表徴である。
その点、”豊かさ”は「富とそれ以外の価値」を内包した価値観であり、全方向的である分、非生命的である。
つまり、「豊かな生命」という現象は、一見ユートピア然としていても、その内実はディストピア的でもある。