契機と選択と権利:頭ではわかっていても、心がついていかないことってあるよね。進路とか選挙とか。
契機とは他力的な選択であり、全き選択とは自力的な契機である。
自己実現とは全き選択の充溢である。
全き選択の重要性
いかに「選択の権利」があっても、候補を比較し吟味するに足る「契機」が揃わなければ、それは主体的な「選択」とはならず、ひとつの受け入れるべき「契機」でしかない。
このような「不条理な選択」で社会が満たされてしまい、全体としての「選択の質」が落ちれば、各々が自ら「今の自分」を選び取ったのだという自信:主体性を培う土壌は簡単に洗い流され、そこは不毛の大地、機械工場と化してしまう。
選択を他力化させない方法
それはその決断に確信が持てるようになるまで選択を留保することだ。
消去法で選ぶくらいならそもそも選ばない方がいいとさえ言える。
「どんな職種に就きたいか」
「文系か理系か」
「パンか米か」
「好きか嫌いか」
「生きるか死ぬか」
このような選択を無理強いすること自体が「選択ミス」なのだ。
こうした愚かな問答が子どもたちから豊かな思考力や発想力を奪い去る。
思いやりがなく、偏狭であることが歓迎され、
時間をかけて思考を巡らすことが非難される。
茫漠たる可能性(選択肢)を提示することも、子どもからしたら恐ろしく残酷だ。
それは安らかな胎内から突如、砂漠に産み落とされるようなもので、幼心に絶望と不安と猜疑を植え付けられる。
その意味で、「完全に主体的な選択」「完璧な自己実現」というものは現実的に不可能なのだ。
選ばせるな、歩ませろ
いくら場面ごとの分岐が多くとも、結局歩む道は1本、一筆で書けてしまうのが人生だ。
自分が「時間的に連続した存在」であることは誰もが理解しているが、それを他人にまで広げることができる人はどうも少ない。
我々は自分自身を「波」であると知っていながら、他人を「点」だと決めつけてしまいがちだ。
おそらく成長する過程で周囲の人々から「決めつけること」「思い込むこと」「見做すこと」「ラベリング」を学んだのだろう。なんとも単純で簡便な思考スキルだ。
すべて選択とは仮初だ
選択とは他者によって設けられた仮初(かりそめ)の意志決定にすぎない。
「選ぶ」というのは「選ばされる」のと同じなのだ。
まるで主体的であるかのように見せかけた、管理社会への道筋。
没個性的な単純人格量産システム、それが「選択の権利」と呼ばれている。
ゆえに全き若者、諦めない若者たちは選ぶことを放棄する。
【ひきこもり、ニート、不登校、放蕩、親不孝】
なにもしていない自堕落な若者も、彼らなりに必死に社会と戦っている。
「選択」はたしかに「強制」よりは豊かだが、「選ばないという選択」には到底及ばない。
みんな、できることなら早々に選びたかったさ。
右であれ、左であれ、偏ったほうが「楽」に決まっている。
『主体性や積極性が求められる時代。』
求められてしまったら発揮したくてもできないだろうさ。
救いたがりの無責任ヒーローばかり。
ドナドナ
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