美しさに負けるな:「大丈夫。自然も君も美しくなんてないから、思うように歩みなさい。」
右翼、保守派は「美と醜」「潔と浄」へのこだわりが強いことが知られている。それに対して、左翼は理知的で打算的だ。
保守派の思考回路:予定論的美意識
現実に美意識(認識)が先立つ
「(自分にとって)美しいもの」→「残すべきもの」
「(自分にとって)美しくないもの」→「淘汰されるべきもの」
革新派の思考回路:結果論的美意識
美意識(認識)に現実が先立つ
「残っているもの」→「(みんなにとって)美しいもの」
「淘汰されたもの」→「(みんなにとって)美しくないもの」
美意識:性淘汰、美しさへの志向
個体数の過多、もしくは選別を行えるほど異性が十分に存在する場合において、様々な「美」による「モテ」「格好よさ」を競う熾烈な(性)淘汰が起こる。
つまり、美は「過剰性」と「偶有性」に宿る。
美とはどーでもいいこと、どっちでもいいことに際しての「固執という余裕と自信」に宿る負の属性である。
政治なんて生きる上では正直「どうでもいい」ことだ。
試合の勝敗なんて生きる上では正直「どうでもいい」ことだ。
肉体のちょっとした形質の違いなんて生きる上で正直「どうでもいい」ことだ。
ゆえにそれらは更なる美しさを目指すことができる。
自然は本当に美しいのか
今ある自然よりも更に美しい自然なんて存在するのだろうか?
自然の美しさはスポーツ感覚で比較してよいものなのだろうか。
あるがままが美しい?あるがままが醜くては自然は自然でないのだろうか
違うだろう
「自然には少したりとも余分なところなんてない。」
「人は自然に少したりとも添削を加えることはできない。」
さらなる美貌のために添削された自然はもはや自然ではない。
失われた美貌を取り戻すために作り出された自然は自然ではない。
姿かたちは同じでも、それは「仮初」の烙印を押されている。
我々が「美しい自然」と呼ぶものはなんだ。
それは立地と手間と利益を加味した上での打算的な観光資源または環境資源にすぎない。好き勝手使えるという意味での「美しさ」なのだ。
自然は美しくなんてないぞ
自然を利用するな、自然を他人事みたいに俯瞰して評価するな。
勝手に自然という複雑系から独立した気になるな。
自らも自然の一部であることを自覚せよ。
そうしたとき、初めて人は色眼鏡を外して、恋人を見、家族を見、友人を見、社会を見、生き物を見、循環を見、法則を見、流れを見、根源を見、自らを見、世界を見れる。そしてそれらの本当の姿を知る。
きっとそれらは想像以上に醜いだろう。
でも大丈夫、醜さに目が慣れていないだけ。
物事の真実を知るということは、愛なくしてできることではない。
醜さから目を背けるな。惨さから目を反らすな。
それは、正しさと不正、失敗と成功、安心と恐怖、純と不純、善と悪、美と醜とが見事に融和した混沌の世界。
単純性に慣れ切った人間の脳がどこまでそれに耐えられるか
定かに予測できることなんて何一つない不安と、それを受け止め慣れることで開けてくる世界本来の明るさ
それによる失明、一寸先は闇
しかし、それは光の世界では見えなかった、ひどく繊細で鮮やかな闇
もはやどちらの色が正しいかではない。
色彩は美しい、ゆえに不要である。
本当に大切なものを「美しい」だなんて絶対に言うな
美しいものは奪われる
私は美しくない!君は美しくない!自然は美しくない!心も命も美しくなんてない!
これ以上、消費され、金に換えられてたまるか。
このご時世、人の理に適わないと思われることが最も自然の理に適っている
そんな風に割り切れたら、きっと楽だろうに