個性に関する偏見
個性とは本来、集団生活の中で自ずと割り当てられていくもの。
個は集から成り、集は個から成る。
自分探しは自分から離れるための簡便な方法の一つであり、その行き着く先は往々にして自己否定だ。それは自らの安直さに対する自己非難によるもので、社会的動物としての正しい反応だ。
自由意志に守られた自由は不自由を覚り、
自由を否認するはずの決定論の中でこそ自由は輝きを放つ。
わざとらしさを嫌うのは生物として正しい反応だ。
わざとらしさとは不自然さであり、
それは自然界において外敵による罠を意味した。
価値や商品広告や社会貢献や大義名分なども「わざとらしい」ものがほとんどだ。
しかし、人は理性的であるがゆえに見え透いた罠にさえ堂々とはまる。
心が向いている方向と裏腹に進むから迷い、不安になる。
命のリズムと違う歩調で進むから戸惑い、体調を崩す。
遺伝子は情報だ。
物質自体はほとんど受け継がれてはいない。
自分の身体の材料は自分が同化した物質だ。
親の血なんて流れていない。
それは隅から隅まで自分の血だ。
しかし、食事は環境と文化と社会と情勢だ。
だからその身体的性質も親に似通る。
流転する大小あらゆる物質には記憶が宿っている。
記憶は、単純なものとしては、祝福と怨念を宿す。
その偏りに応じた規模の影響を現象に及ぼす。
流転とは時間に依存した現象だ。
時間は認知、すなわち外-内の間柄に宿る。
内だけの世界(=梵我一如、万物斉同、空)、外だけの世界(=無我、無私、空)において時間は意味をなさない。そこでは記憶如何も関係ない。
つまり、個性とは、
食事や他者とのコミュニケーションの中で少なからず形成され、
二項対立というつまらなさの中で尊重され、
つまらなさという不自然さを必要とするがゆえに、
不安による精神障害や免疫力の低下による疾病を引き起こす主な原因となる性質のものである。
個性の最たるものは個人的専門家、いわばオタクだろう。
公的な専門家となればそれは集団的であるため、有害性は低い。
個性の最も低いものは受精直後の卵である。
孤独も個性の代表である。不幸な人も概ね個性的だ。
個性的でない不幸な人はどこか活き活きしている気がする。
そんな感じの個性だが、
人口削減にはかなりいいかもね。
あ~、個性欲しい~_(:3 」∠)_
井の中の蛙ではいられぬ時代、
お山の大将も憂鬱そう。