自分が選んだものを身にまとうこと
私たちは選択を身にまとって生きているのだなぁ、と最初にじんわりと実感したのは、お店のショーウィンドウ越しに商店街を眺めている時のことでした。
時はコロナ禍。私はまだ学生で、アパレルでアルバイトをしていました。
あの頃は、緊急事態宣言が何度も出て、「第〇波が……」とか「不要不急の外出は……」なんて言葉が飛び交っていました。バイト先も何度も休業し、たとえ復活しても時短営業を余儀なくされていました。
しかも、店を開けたところで、「不要不急の外出」のための服や靴を新しく買おうという人はいません。お店の客足はぐんと遠のき、ぼんやりとショーウィンドウの外を眺める時間帯も少なくありませんでした。
とはいえ、私が働くお店が入っている商店街にはスーパーやドラッグストアもあるので、人通りがゼロになることはありません。足早に目的地に向かい、マスクや食料品などの必需品を買い求め、また家路を急ぐ人たちの姿をショーウィンドウ越しに見ることができました。
彼らの服装を見ている時に、ふと思ったのです。私たちは文字通り、選択をまとって生きているのだ、と。
コロナ禍前は、お店には沢山のお客様が出入りし、季節や好みに合わせたバッグや靴を買っていかれていました。今、私の目の前を通り過ぎる人たちも、かつて、どこかのお店でそれらを購入したのでしょう。
履いている靴も、肩にかかるバッグも、握られたスマホも、どれもその人の選択の結果です。その選択の背景を知りたくて、私は色々と考えを巡らせました。
そんな風に他人の選択の結果を眺めながらその背景に思いを巡らせていた数年後、ある日、私は家を出る時にはっとしました。その日の服は、自分で選んで買ったものでした。靴も、バッグも、全てです。その瞬間、「自分の選択を身にまとうって、こういうことか!」と少し嬉しくなったのです。
今でこそ、自分で選び、自分で買ったものに囲まれている私ですが、他の人のお下がりを着ていることも少なくなかった学生の頃や、自分の好みなどが確立される前の幼い頃などは、自分の選択を身にまとっている感覚などはありませんでした。
けれど、社会人になり、自分で自分の好みも分かってきて、それを買う余裕も出てきたことで、とうとう「自分が選んで買った」ものだけを身に着ける日が来たのです。
両親の選択の結果をただ受け取るのでも、他人の選択したものを何とか自分に合わせるのでもなくて、自分が選んだものを着ている・持っているという状態。その状態を幸せだと、私は思いました。
もちろん、人からプレゼントされたものを使うのも、楽しいものです。でも、自分でいいなと思ったものを持ち、自分の選択に満足しながら街を歩くことは、大人になってから得た幸せだと思うのです。
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この作品は、アドベントエッセイです。クリスマスまでの24日間をワクワク過ごしてほしい、という思いから、「24年の人生で見つけた、24の幸せ」をテーマに毎日1本ずつエッセイを書いています。
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