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"推し"なんていなくていいと思っていた私に、数百万人の”推し”ができるまで

"推し活"なんて、ただの経済活動だ。
誰かのファンでいるって馬鹿げてる。

それなのに、"推し"を作るの?
世の中の流れ、おかしくない?

"推し"という言葉が巷にあふれ、"推し活"がスタンダードな趣味となった現代。"推し"がいない人を置いてきぼりにするような時代の空気感に、数年前までは、私も違和感と疎外感と恐怖を抱いていました。

なぜなら、私は「誰かのファンになることをやめる」と誓った人間。だからこそ、誰かを"推す"人自体が苦手で、社会全体が"推し"に対して熱をもっていくことに、言い知れない怖さを感じていたのです。

でも、そんな私に、数百万人の"推し"ができました。例えではなく、本当に。もちろん、全員に会ったことはありません。でも、私は彼らを心から推し、彼らの幸せを心から願っています。

"推し"の話、苦手なんだよね。

"推し"がいる前提で話が進んでいくコミュニケーションに、違和感があるんだけど……。

"推し"って作らなくちゃいけないの?

今日はそんな、"推し"がいないことで何かしらモヤモヤしている人に向けて、私の体験談をお伝えしようと思います。

"推し"を作ろう! とはならなくていい。でも、"推し"がいる人たちが見ている世界の一端に、何か心動くものがあれば嬉しいです。

※想いの強さのあまり、5,000字を超えております。お時間ある際に、ゆっくりお読みいただければと思います。




誰かのファンになることをやめると誓ったわけ

今でこそ数百万人の”推し”がいますが、そもそも、私は「誰かのファンになることをやめると誓った」人間です。

「誰かのファンになることをやめると誓った」という言葉の意味するところは、「かつては誰かのファンだった」ということです。そう、私にも”推し”がいたのです。

それは、私が高校生だった頃。

当時、私には何人かの”推し”(当時は推しという言葉はなかったけれど、便宜的に”推し”と表記します)がいました。しかし、彼らの立て続けのスキャンダルに、私は完全にまいっていました。

スキャンダルの時こそ推し続けるのが本当のファンだという意見もあるでしょう。でも、到底尊敬できない行動を、どう擁護すればいいのか分かりませんでした。擁護している他のファンの姿を見て、さらにがっかりしただけでした。

その時にふと思ったのです。

”推し”は私個人を見ていない。私がどんな想いで応援してきたかも、知らない。こちらは裏切られた気持ちでいるけれど、それすらも知らない。
……誰かのファンでいるって、馬鹿げてる

それまでは、好きになったアーティストがいれば、私は全力で”推し”ていました。CDは全部買うし、その人がテレビに出るとなれば必ずチェックし、ラジオに出ると知れば、普段は聞かないラジオを聞くことだってありました。

ニュースも全て追う勢いで、その人が載っている雑誌はことごとく買い、SNSでの発言にもしっかりと目を通していました。

そんな風に誰かを”推し”てきたからこそ、熱が冷めた後の凍り方もすさまじいものでした。「もう誰かのファンになんてならない」と、大失恋さながらに誓ってしまったのです。



”推し”がいないのに、”推し活”の時代がやってきた

誰かのファンになることをやめた私の生活は、一気に楽なものになりました。もう、ネットのニュースに心を揺らす必要はありません。もう、自分のことを見てもくれない”推し”に時間やお金を使う必要もありません。

ファンにならないまでもちょっと好きだったものが、自分の望まない方向に変化していくのを見ても、私は冷静なものでした。不変なものなんてないのに、それを全力で推していたファンたちの阿鼻叫喚を見ては、「誰かのファンにならない」選択をした自分に感謝したほどです。

ところが。

時代は移り変わり、自分の好きな”推し”を公言する風潮が強くなり、”推し活”などという言葉が一般的なものになり……。私のスタンスとは異なる人たちの存在が、目につくようになってきました。

「誰かのファンになることをやめる」という選択をした私にとっては、アーティストのファンダム(ファンの集団のことで、名前がついていることも多いです)は、「自分と正反対の道を進む人の集まり」に他なりません。私は、ファンダムの存在をどこか恐れるようになっていきました。

誰かを推している方たちからすれば、「勝手に怖がられても困るんですけど……」という感じでしょうが、神様が乱立しているような怖さを私は感じていました。

何だか不気味な現象のように思えてならなかったのです。

おびただしい人間が、それぞれの”推し”に熱い視線を注ぎ、誰のファンであるかを公言し、自分の”神”への愛を語る……。

とんでもない時代になってしまったと、私は眉をひそめていました。

こんなの、ただの経済活動だ。
企業の戦略に乗せられてモノを買っているという意識はないのか。
いつか裏切られて痛い目をみるだけなのに……。



”推し”を推す人たちの本当の姿を見た

”推し”の話をする人を冷めた目で見て、世界にいくつも存在するファンダムの数々に恐怖していた私に、転機が訪れました。

久しぶりに、好きなアーティストができたのです。

とはいえ、「誰かのファンになることをやめる」と誓った私。アーティストの周りにいるファンだって、私から見れば怖い人たちです。当時の私は、オンラインライブすらも、見るかどうか迷う始末でした。

でも、そんな小さな理由で(ファンになったわけではないけれど)好きになったアーテイストさんの晴れ舞台を見ないのはもったいない気がしました。

結局、迷いながらもオンラインライブを見ることに決めたのですが、その時、思いもかけないことが起こりました。コメント欄で他のファンの方たちがテキストでお話ししているのを見て、何だかほっこりしたのです。

私の知らない世界がそこにはありました。

アーティストとファン、だけではなく、ファンの方同士もあたたかい交流をしていたのです。その光景は、ファンダムに嫌悪感を抱いていた私の考えを、ほんの少し変えてくれました。

近づきたくない。でも、もっと知りたい。

オンラインライブ後、とうとう、恐怖に好奇心が勝って私はコミュニティにも足を踏み入れました。そこで、思ってもみなかった感想を抱くことになるのです。

この方たち(一体、何万人いるのか知らないけど)、みんな素敵な人たちだ」と。

ずっと、”推し”を推している人は、”推し”だけを見ているかと思っていました。でも、必ずしもそうではありませんでした。

新しく仲間に加わったファンを快く迎え入れ、共に応援する仲間として大事にし合う。想像もしていなかった優しいコミュニケーションと、推しへの愛にあふれる空間がそこにあったのです。

その根底にある、”推し”への共通の愛の純粋さに、私は、ただただ衝撃を受けました。また、アーティストも、ファンたちの愛に日々応えていました。その姿を見て、「だから推されるんだ」と納得もしました。かつての私の一方通行な”推し活”と今の”推し活”は、全く違ったのです。アーティストとファンも双方向。ファン同士でも繋がれる。たとえオンライン上であったとしても、あたたかい交流が存在していました。

それから数か月も経たないうちに、私は、自分の心にある変化が起きていることに気がつきました。”推し”を推している人たちへの恐怖感や嫌悪感は、もうありませんでした。それどころか、彼らを好きになっていることに気がついたのです。

その時の不思議な感情は、2022年の日記にも残っていました。そこには、「私は、アーテイストのファンのファンかも。だって、アーテイストのグッズやCDが欲しくはならなくて、ファンたちのコメントを見て、幸せになるから」と書かれていました。

そう、アーティストのことは確かに好きです。

でも、ライブに行きたいかと言われると、それは違います。私が行けるということは、その分、誰かが行けなくなるということです。その誰かは、”推し”を全力で推す彼らのうちの一人です。そんなこと、何があってもしたくありません。

それよりも、日々供給されるコンテンツや情報と、そこに寄せられるコメントや反応を見ている方が、よっぽど幸せになれるのです。

ただ、365日、1分たりとも休むことなくアーテイストへの愛を語る”推し”たちの熱量に負け、最終的に私はコミュニティから去りました。(世にいう、供給過多というやつです)

けれど、普通に仕事をして、普通に学校に行って、家事をして、宿題をして、課題をして……。そういう日常の生活をしながら、"推し"を全力で愛し推し続ける私の”推し”たちの姿は、私の目に焼きついています。


ファンダムのファンになるということ

こうしてファンダムのファンになった私ですが、ある意味、私の生活は少しも変わっていません。

普通は、”推し”のグッズを集めたり、ライブに行ったり、CDを買ったり、ポップアップショップや期間限定カフェに行ったりするのでしょうが、私の数百万人の”推し”に、そういうものはありません。私の部屋や持ち物に、ほとんど変化はないのです。

けれど、大きく変わったことが一つだけあります。世界の見え方が変わったのです。

そんな大げさな、とお思いになるかもしれません。

けれど、ファンダムのファンになるということは、今日”推し”を直接見かける可能性があるということです。

この記事を書き始めた2022年2月21日(熟成させすぎですね)の時点では、私の周りに、そのアーティストのファンはいませんでした。だから、これから知り合う人が”推し”かもしれない、という「世界中に宝物が隠されているようなわくわく感」があると当時は書いていました。

今では実際に、道を歩いている時、電車に乗っている時などに、私はよく”推し”たちを見かけます。前に横断歩道ですれ違った時は、その方の1日の幸せをすれ違いざまに祈ってしまったほどです。

なぜ、”推し”か分かったかというと、彼らの持ち物です。アーティストのグッズ、ライブのグッズを身に着けていたり、持っていたりすれば、私にはすぐに分かります。出ているグッズは一通りチェックしているからです。

それはもう、アーテイストのファンでしょうと思われるかもしれません。

でも、私がアーティストの情報を集める動機は、少し変わっています。グッズの発売日も、カムバの日も、ライブの当落日も、ライブの日も、私にとっては、”推し”たちの心が動く大事な日だから、知りたいのです。

自分が欲しいとは思わない、けれど、そのグッズを買えて喜んでいる”推し”たちの姿を想像するのが楽しいのです。ライブに自分が行こうとは思わない、でもその空間で涙を流す”推し”たちのことを考えて心が温まるのです。

もともと私が「ただの経済活動」という言葉で一蹴していたファンたちの応援行為が、今では私を幸せにしてくれています。

ファンダムのファンをやっている人がどれくらいいるかは、私には分かりません。けれど、”推し活”熱に違和感を覚えたり、”推し”がいないことに悩んだり、引け目を感じたりしている人に私はこう伝えたいです。

ファンダムのファンになってみたら、世界が広がるかもよ、と。

私も、私の”推し”たちに出会うまでは、”推し活”がいいものだとは思っていませんでした。”推し”の話をしている人の気持ちが分からず、見えない壁を感じてもいました。

けれど、だからこそ一度自分から歩み寄ってみるといいのです。

アーティストを推しているファンたちの声に、耳を澄ませてみてください。彼らのコミュニティに入り込み、彼らの言葉を浴びてみてください。想像もできない、すさまじいエネルギーを感じられるはずです。

「同じ熱量で、アーティストさんのことを推せない……」と卑下することはありません。ファンダムのファンとして彼らを応援するのも、立派な”推し活”だと私は思います。

本来、”推し活”は自分を幸せにしてくれるものだと思います。自分を削るような、捧げるような応援の仕方は、しなくていい。無理に”推し”を作らなくたっていい。でも、純粋に”推し”への愛を叫ぶファンの方たちを愛したって、いいじゃないかと思うのです。



さいごに

この記事は、書くのも難しく感じられましたが、それ以上に、投稿するのにハードルを感じました。想像していた以上に、好きなものを語るのが恥ずかしかったのです。

というのも、実際に「推しっている?」と聞かれても、「ファンダムのファンなんだ」とは答えられないのが現実……。理解されないのではないか?という恐れが強いのです。

でも、だからこそ、発信してみようと思い立ちました。実行に移すための勇気は、数百万人の”推し”たちがくれました。日々彼らが”推し”への愛を語る姿が、私の背中を押してくれたのです。

そこで、さいごに、まだ会ったことのない数百万人の”推し”たちに、私は感謝を伝えたいと思います。なぜなら、さまざまなプラットフォームで目にした彼らの姿が、「誰かを応援する尊さ」を私に思い出させてくれたから。

アーティストを本気で応援し、新しいファンが来たら喜んで迎え入れる皆さんの姿に、私の凍った心は溶けていきました。違う言語で打たれたコメントなのに、翻訳してみたら完全に同じことを言っているあなた方が、私は好きです。

誰かへの愛が、世界の共通言語になると教えてくれてありがとう。
私の世界に、彩りを取り戻してくれてありがとう。

どうか今日もあなた方の”推し”を純粋に愛して、明日からもまた元気に、幸せに生きていってください。

#私のイチオシ
#沼落ちnote

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元町ひばり
最後までお読みいただき、ありがとうございます。ここは、誰でも入れる「言葉の庭」ですが、もしあなたの心に響くものがありましたら、応援のほどよろしくお願いいたします🕊

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