意味ない祈りの先に
私は時々、意味のないお祈りをすることがあります。
意味のない祈りなどないと思いたいけれど、どんな宗教の信者でもなく、教会で祈るのでもなく、相手のことも知らないのに祈ること、そこに"きちんとした"意味などない気がするのです。
意味のないお祈りをするのは、
たいていは通勤中。
目についた見知らぬ人に狙いを定め、その人を見て、これからどこに行くのかを、さっと想像します。朝の電車には、明らかに遊びに行く格好の人もいるし、見るからに会社に向かっている人もいるし、長旅を感じさせる人もいます。
私は、それぞれの人にぴったりの祈りを心に浮かべます。一日、楽しく遊べますようにとか、もしも辛い仕事をしているなら、少しでも心が軽くなるようにとか、素晴らしい体験の後、無事に家に着きますように、とか。
でも、意味のない祈りには、やはり行き場がないようにも思われます。そもそも、私が祈っていることに、その人たちが気がつくことはありません。私がどんなに全力で祈っても、彼らの表情が1ミリでも変わることはありません。
それでも、なぜかこの意味のない祈りをしてしまうのです。神様に、この一人言のような祈りが聞こえているかも分からないのに。
でも、聞こえていてくれと、また祈るのです。
意味ない祈りを意味あるものにしてくださいと。
そしていつか、自分を助けてくださいと祈る時、神様に自分の声が聞こえていないのかもしれないと不安になる時、私は想像します。
どこかに、同じように意味のない祈りを捧げている人がいるのではないかと。神様に言葉が届かないと憂いている私の代わりに、どうか祈りを聞いてくれと祈る人がいるのではないかと。
今日も、いくつもの、意味のない祈りを私は捧げます。
神様が聞いていないのだとしたら、本当に意味のない、心の中の一人言。猛スピードで街を駆ける電車のなかで、声にならずに流れていく祈り。
でも、どこかに、同じ一人言を呟いている人がいるのだと信じることは、神様を信じるよりもずっと容易く思われます。
そして、そんな人がいるなら、神様のことも信じることができる気がするのです。
意味ない祈りの先に、やっぱり神様がいるような気がするのです。
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私自身、ワクワクしながら書いた記事。
いつも読んでくださる皆様の心にもワクワクを、夢を追う勇気を届けられたら嬉しいです。
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