【映画】『君たちはどう生きるか』
映画が公開されてすぐに、『君たちはどう生きるか』を観に行きました。
ネタバレも考察も、全てを逃れる最善策は、いち早く観てしまうことだと思ったからです。
そういうわけで、映画が公開されてからずいぶん経ってからの記事の投稿となります。自分自身、映画が公開されて早々に「ネタバレする側」の人間にはなりたくなかったのです。
今回の記事では、映画の細かな内容に触れることはしませんが、結末に触れてしまう部分があるので、映画をご覧になっていない方は、映画鑑賞後にお読みいただくことをおすすめします。
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広告宣伝をしないという広告手法が話題になっていた今作。
広告手法も含めて、私がこの映画を観て感じたことを綴ろうと思います。
とはいえ、広告と作品は関係ないのだから、純粋に作品だけを見て、感想を書くべきだと思う方もいらっしゃるでしょう。でも、実際のところ、映画と広告はがっちりと組み合わさって私たちに訴えかけてくるものです。抱く感想も、広告宣伝に影響を受けているというのが現実だと思います。
私たちは、映画を観る前から主人公の名前を知り、キャラクターたちの性格を知り、主人公が抱えている課題を知っているものです。いえ、広告によって知らされるのです。
だから、「広告宣伝をしない」今作は、主人公はどんな人間なのかを映画を観ながら少しずつ知っていくという、本来の物語の楽しみ方に戻れたような気がしました。
ストーリーも然りです。
映画を観始めた時は、ファンタジーだと思っていなかったのですが、映画を観終わってすぐに思ったのは、王道のファンタジーだなぁ、ということでした。安直な感想に聞こえるかもしれませんが、見事に、「ゆきて帰りし物語」になっていたからです。
主人公は、現実からファンタジーの世界に足を踏み入れ、そこで冒険を終えてから(すべきことを行ってから)、また現実の世界に帰ってきます。
母もいない(新しい母はいるけれど)、戦争も終わっていない、現実の世界に。
そんな、「ゆきて帰りし物語」となっている作品世界と、これまでの広告手法のこととを考えていて、思ったことがあります。
それは、私たちは、現実世界に帰れているか? ということです。
突然何を言い出すのだろう、と思うかもしれません。
でも、少し考えてみてほしいのです。
私たちは、映画を観る前から、作品の情報に触れることで、作品世界に足を踏み入れます。作品を観ている間はもちろん、作品世界にどっぷりと浸ります。そして、作品を観終わった後は、パンフレットで「答え合わせ」をして、テレビで何度も流れるCMが耳に飛び込んできて、ネット上の数えきれないほどの記事はSNSのコメントにさらされます。
私には、広告が、私たちが作品世界から帰ることを阻害しているように思えてならないのです。私たちも、作品を楽しんだ後は、映画の主人公と同じように、現実に帰っていかなければならないはずなのに。
いつだったか、私が小説を書くのをやめた理由をここでお話ししました。
作品世界を楽しんだ後に「現実の世界をより愛せるように」なってほしくてファンタジーを書いているのに、私の未熟な文章力ではそれが実現できないと感じたから、というようなことを書いています。
ファンタジーを書きながら考えていたのは、夢の世界を作ろう、浸ってもらおうということよりも、「私たちが生きるのは、夢と想像の世界ではなく、この世界だ」ということだったのです。
そこで、文章を書く時のエネルギーをエッセイに切り替えて、noteを書いています。エッセイは、現実で起きたことを語ります。そこにファンタジーが入り込む余地はありません。
私の最近の現実ときたら、病気や怪我で苦しんだり、親しい人を失って悲しんだりと、見ていて楽しいものではないかと思います。
でも、誰しも似たようなものを抱えていると思います。
だから、エッセイでなら、誰かが自分の現実を生きていく手助けができるかもしれないと思ったのです。
そして、主人公が今ある現実を飛び出して、別の世界や、本来いるべきところではない場所で冒険をして課題を乗り越えて、また元の現実に戻ってくるファンタジーにも、同じ力が(もしくはそれ以上の力が)あると思うのです。
ファンタジーの作品の楽しみ方は、「正解」を探して作品世界に居座り続けることではないと思います。作品を楽しんだ後は、主人公と同じように、現実の世界に戻るべきなのです。自分の帰るべき現実に。生きるべき現実に。
君たちはどう生きるか。
私たちはどう生きるか。
問いかけのようなタイトルの今作を観て、私は、帰るべき人生に帰って生きることが大切なのではないかと感じました。
疲れた時は休んでもいい。
夢のようなファンタジーの世界を楽しむのだって人生でしょう。
でも、いずれ元いた場所に帰ることになるし、そこで生きていくことこそが私たちの使命であると思うのです。