戦国遺跡 牛つなぎ石
松本あめ市は毎年1月第2週の週末(1月10日頃)に開催され、松本市界隈のイベントとしては三本の指に入る、大変賑わうお祭りです。
あめ市に関してはまた機会を改めるとして、このあめ市と切っても切れない関係にあるのが、牛つなぎ石と呼ばれる石なんです。
牛つなぎ石の縁起
松本市街地の中心部、中央二丁目交差点の北西に置かれた、注連縄が巻かれた灰黒色のやや丸い石が牛つなぎ石と呼ばれる石です。
注連縄がある時点で、特別な石だというのがお分かりいただけるでしょう。
2019年10月撮影
傍らには「戦国遺跡 塩市 牛つなぎ石」と彫られた碑と縁起が書かれた案内板が立っており、周囲が常に清掃され、とても大切にされています。
案内板には、町内古老口伝として、こう書いてあります。
永禄十一年(1568年)一月十二日、本町と伊勢町との辻角に建つ「牛つなぎ石」に越後の武将上杉謙信公の義侠心に依る塩を積んだ牛車が塩の道を通りたどり着いたと伝承されて居ります。当時松本地方は甲州の雄武田信玄の支配下にあり、この武田方と敵方に当たる今川・北条方は太平洋岸の南塩の道筋を封じ、甲州・信州の民人を困窮させた。これを知った謙信公は武田方とは敵対関係にありましたが日本海岸の北塩を糸魚川経由で松本方面に送りました。
この日を記念して上杉謙信公の義侠心を讃え塩に対する感謝の日として初市の日になったと伝えられて居ります。 (後略)
敵に塩を送る
山に囲まれ、海のない信州にとって、生活に欠かせない塩の流入を止められることは、死に直結する重大な問題です。
武田領だった信州は、敵対する今川氏・北条氏からの塩の流入を止められてしまいます。そんな時に引続き塩を送ろうと言ったのが、越後の龍、上杉謙信だったわけです。
ライバルといわれる信玄とは川中島で5回も戦っていますが、この時ばかりは「我は兵にて戦いを決す、塩にて敵を屈せしめることをせじ」と言ったとか。
まさに義の名将。惚れてまうやろ。
案内板にあるように、塩を運んだ牛が到着した時の民衆の喜びようと感謝の気持ちは想像に難くありません。
義の塩を運んだ牛がこの石に繋がれたので、牛つなぎ石と呼ばれるようになり、これを記念して松本で正月にあめ市が行われるようになったということです。
2020年1月撮影 あめ市の日の牛つなぎ石
まとめ
松本市街地の真っ只中に立つ、牛つなぎ石を紹介しました。
上杉謙信の「敵に塩を送る」の逸話が元となって、牛つなぎ石という名前になり、松本であめ市が開催されることになった、とのことです。
ちなみに、この一連の話は義塩伝説とも言われます。義塩伝説とあめ市と牛つなぎ石はワンセットなんですね。
そんな奴おらへんやろ〜 (by 大木こだま師匠)
この義塩伝説、「ええ話やな~」で終わればいいんですが、疑問なことがたくさんあります。
例えば、「なんで牛を使ったのか。中世なら物流には馬を使うでしょうに」とか、「そもそも、謙信が塩を送ったって本当なの?」などなど....
あめ市を切り口に素人なりに色々調べたので、牛つなぎ石だけでも書くことがいっぱいあるんです(笑)
というわけで、次回以降の記事で、あめ市と牛つなぎ石により深く切り込んでいきたいと思います。