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aikoのおかげで育ての親に逢いに行ったら、世界がひっくりかえった話

「正月なんて、なにがめでたいんだ」と思っていた。

冬休みは学校がない。年末年始は一日中、家にいるしかない。だれとも喋らない、息の詰まる感覚。
いつもより時間が過ぎるのが長くて、胃は毎秒キリリと傷んだ。
ひたすら勉強に打ち込むか、心を殺してボーッとしてるだけ。それが、わたしのお正月。

そんな「家庭」の当たり前の風景が、どうやら当たり前ではないことに気づいたのは、もっとずっと大人になってからだった。

「年末年始は地元に帰るの?」
そんな何気ない質問に「どうしてですか?」と不思議そうな顔で返すわたしは、これまで相当ヒネた人間に見えていたことだろう。

「帰省はいかがでしたか?」
年明けの何気ない雑談にねぎらいのつもりでそう話しかけて、「家族で毎日ひたすら食べて飲んでたよ」と返されたとき。
「えっ、家族で?お酒を?一緒に飲むんですか?」と戸惑ったわたしを、相手が不思議そうな顔で見ていたのはそういうことだったのか。

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年末が近づくと、いつも脳裏に浮かぶのは中3の大晦日のこと。

わたしは当時、受験生で、それだけじゃなくて、とてもせっぱのつまった受験生で、なんでかって志望の公立高に受からなければ華の女子高生にもなれない手はずだったからだ。

日本の法律では、高校は義務教育ではない。
けれど、両親にとって「せめて高校くらいは」は常識だったらしく、公立高校の受験はゆるされた。
しかし、担任の先生とすでに話し合って決めたはずの滑り止めの私立は「どうせ行かせないのに受ける必要がありますか?」と三者面談で一蹴された。
つまり、彼らにとっての教育水準は「公立高校 or 中卒」ということらしかった。

「もしダメで、どうしてもと言うなら定員割れの農業高校の寮に入ってもらうとか、定時制とか、いろいろありますから」
お子さんの成績ではその選択はもったいない、受験の練習だと思って私立も受験させてみましょう。冷静にそう説得してくれた担任の先生がとてもありがたかった。

わたしにはやりたいことがあって、どうしても行きたい学科があって、第一志望の進学校以外考えられなかった。
ランクを落として安全パイを狙おうか。何度もなんども迷ったけど、中学生にとっては人生初めての大きな決断だ。ひとりじゃ決められなくて、結局挑戦する他なかった。
なんとか滑り止めを”受ける”ことはできたけど、実際に通わせてもらえるわけではないだろう。

あとが、なかった。

来る日も来る日も勉強して、ふと気を抜くと不安で頭がおかしくなりそうだった。
問題を問いている時間はいい。着実に進んでいる感じがする。安心できる。
だけど、ご飯を食べているとき、あの小言の時間。
プレッシャーで押しつぶされそうになりながら、なんとかやり過ごした。

そんななか、わたしの心を救い上げてくれていたのは歌手のaikoさんの存在だった。
ひとりの部屋で何度もなんども繰り返しCDを聞いては、なんだかひとりじゃないような気持ちになって励まされる。
特定の歌手のファンになったのは初めての体験で、新鮮で、心強かった。

毎年何気なく見ていた紅白歌合戦。そっか、あれに出るんだ。
新聞でタイムテーブルを確認して、出演時間にあわせて居間に降りる。
彼女の歌っている姿を見て、年明けの受験がんばろう。
ただ、それだけの、ちいさな贅沢。

だけど、わくわくした様子でやってきたわたしを見た母親は、弟に「チャンネル変えて」と命じ、クスクス笑った。

「えっ、なんで!?」思わずパニックになって声をあげる。
ニヤニヤしている彼らに、抵抗なんかしても仕方がなかった。
あと数分。時間がない。

急いで押入れのなかから、古びたアンテナテレビをひっぱりだして、コンセントを繋いだ。
東北の真冬の台所の寒さでカチカチと歯を鳴らし、アンテナの設定がなかなかうまくいかなくて、ガシャガシャと操作する。

ノイズだらけの画面にやっと写ったaikoの姿を見て、ボトボトと涙が溢れ出した。
そのとき歌っていたのは、当時リリースした「スター」という曲。

「あなたはいつまでもあたしの光」
何度もサビのフレーズを口ずさみ、後ろからの怒鳴り声に聞こえないふりをした。

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地元を出てから、もう8年ほど。
帰るのは、決まってaikoのライブのあるタイミングだった。

ゴールデンウィークにもお盆にもお正月にも帰省なんかしないわたしにそろそろ同級生たちも慣れてきて、「次はいつライブなの?」と集まってくれるようになったのがとてもありがたい。

だけど今年は、どうしても逢いたい人たちが他にもいた。
チーパパとチーママ。こどもの頃、預かってもらっていた親戚のお家の夫婦のことをわたしはこう呼んでいる。

畳職人であるチーパパは、夕方に帰ると決まって作務衣に着替え、座椅子にドシンと腰掛ける。
奥さんのチーママはいそいそとお酒やお水や氷を運んできて、合間にたくさんのおかずを作る。
わたしは、テーブルの上のピッチャーと氷でグラスにお水を作ってもらって、それを飲むのが大好きだった。

地元を離れて、自分よりずっと大人の人たちとお酒を飲む機会が増えるたびに「チーパパと晩酌してみたいな」という気持ちはむくむく膨らんだ。

勢いで電話をかけて、とうとう何年も何年も言い出せずにいたワガママを口にする。
「あのね、今度仙台に帰るんだけど、チーパパとお酒が飲んでみたくて…」
「なんだお前、成人したのか」
「もう、来年30になるよ。1.5回成人だよ。」
「じゃあ、俺は4回成人だな」
顔の見えない電話越しに、ふたりで笑いあって電話を切った。

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「ねえ、どうして畳屋さんになったの?」
チーママのご飯を食べて、チーパパにお酒を注ぎながら聞いてみる。
わたしは小さな頃からなにかを作ることがなによりも好きで、それは明らかに彼からの影響だったからだ。

「昔はな、自分で職業なんて選べなかったんだよ。中学を卒業して、親父に急に親方のところに連れてかれて、弟子入りして。他の兄弟は大工になったりパン屋さんになったりしたよ。
でももう70年も続けてるからな、この仕事。」

そう言って、今度はわたしの仕事のことをたくさん聞いてくれた。
身内に自分がどんなことをしているのか興味を持ってもらうことも、肯定されるのもこれまでにはなくて、はしゃぎながらパソコンの画面を見せてあれこれと話した。

「昨日は街中のホテルに泊まったよ」と何気なく言うと「なんだ、家に来ればよかったのに」と返された。
「予定があって夜遅かったから…」と答えようとして、ふいに思い直して「お母さんに図々しいって言われたことがあって、あんまり来ちゃダメなのかなって」と続けた。
「でも、大人になって、いろいろ考えることも増えて、どうしてもこうやって、お酒を飲んでお喋りしてみたかったの。だから、うれしい」

驚いたのは、その途端、チーパパが目に涙をいっぱい溜めて、顔を真っ赤にして怒り出したからだ。

「そんなこと言うなら、最初っからこの家になんか預けるな。俺はお前が生まれたばっかりの頃から、この背中におぶってきたんだぞ…。お前のお母さんの代わりに俺が…」

目の前でわたしのために怒ってくれて、泣いてくれるチーパパを見て、わたしも涙があふれてしまって、ふたりで向かいあって一緒に焦ってしまった。
だって、お互いがこんなにグスグス泣いているところを目にしたことなんていままでなかったから。

すると、せわしなく食事の支度をしてくれていたチーママが居間に入ってきて、わたしたちを見てぎょっとして、今度は大笑いした。

血は繋がっていないけれど、この人たちとわたしは本当の親子ではないけれど。
家族ってこういう感覚のことを言うのかな、なんて思った。

そんな考えを見透かしたかのように、チーパパがわたしの目をしっかりと見つめて言った。

「いいか、お前はたしかにここで育ったんだ。だから、お前の家だ。いつでも好きな時に帰ってきていい。ここに来たって、誰にも言わないであげるから。ちゃんと黙っておくから」

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実の家族とは、昨年、完全に決別した。
もう、わたしに呪いの言葉を植えつけてくる人たちはいない。
だけど、気がかりなのはずっと、みんなが当たり前に持っている「普通の家庭で育った」前提がないこと。

人と深く関わるたびに、いつもとんちんかんな答えを出してしまうのは、まるでオオカミに育てられたようなものだからだと知った時には、もうずいぶん歳をとってしまっていた。

自分が自分として生きること、他者との境界をひくこと、話しかけてもその途端に怒鳴り返すような人はそうそういないこと。
そんな「常識」を頭では理解していても、それに慣れることはなかなか難しい。
アダルトチルドレンや機能不全家族の自助会に足を運んでは、これまでに捉えていた「常識」がたしかに世の中のどこかにはあることを再確認して、やっと落ち着くような日々だった。

チーママはわたしの祖母の妹で、チーパパはその旦那さんである。
わたしとチーパパ は血縁関係にないし、それぞれの「家」とされるまとまりとしてはまったく別のものだ。

だけど、彼らの家に行ってからは、凄かった。
家とはこんなにも安心で満たされてる場所だと初めて知った夜から、なにもかもが一変して見え始めたのだ。

まるで、心が凪のようだ。毎日そう体感しながら過ごした。

褒めてもらったり、楽しく穏やかに過ごしたり、好きなことを好きなようにふるまうたびに頭のなかでわたしを否定していた、小さな母親の存在はしゅんと消えていった。

代わりに同じようなタイミングで浮かぶのは、「チーママが縫ってくれた浴衣でチーパパが遊園地のナイターに連れてってくれたなあ」なんて甘い想い出。

そして、ふと冷静になってまわりを見てみると、想像していた以上に周りの人たちが自分を肯定してくれていたことに気づいた。
認めて、尊重して、そうしてお互いを鼓舞しあう。そんな時間の記憶ばかりが心に溜まっていく。
環境も状況もなにひとつ変わってないはずなのに。

そっか、自分が愛されていたこと、まともで素晴らしい人たちに「育ててもらった」期間があることを知ったら、人はこんなにも強くいられるのか。

世の中には、自分のこどもをどうやっても愛せない親もいて、こどものままこどもを持ってしまった親もいて、それはどうしようもないことなのだけれど、世の中には、自分のこどもじゃなくったって、親になれるひとも存在するのだ。

いつもの丁寧な日常に混ぜてもらっただけ。
ただそれだけのことが、こんなにも心をすがすがしく健やかにする。

自分の暮らしを愛することが、自分の関わる人たちへの愛情につながっていくのね。いいこと教わっちゃったな。

だからわたしは、これからも大切に暮らしていこうと思う。たくさんの人たちに育てられ、育てあっていきながら。



原稿料代わりに・・!?