
意味の向こうにあるもの
文学がもつであろう「未知」の可能性は、小説好きの方なら、同意してもらえると思う。でも、その「未知」の可能性の正体は誰にもわからない。
ただ、かすかに「予感」している作家は何人か存在するように思う。
その稀有な作家の一人が梨木香歩さんだ。
『西の魔女が死んだ』という作品が有名だが、梨木さんの視野は壮大で、小さな草木や鳥から人間の俗世界、そして人には見えない時空間へ、行ったり来たりしている。
私が最初に読んだのは、『村田エフェンディ滞土録』という作品。物語にずっと漂っている霊的な空気感がとても不思議で、神話的時間が流れる空間と現実世界の狭間を行ったり来たりするような世界観に見事に、はまってしまった。
また彼女のエッセイも魅力的だ。物語で展開される、あの「不思議」としか言いようがない世界を理解するための小さな手がかりが散りばめられているように思う(たぶん)。
そうしたエッセイの一つに『やがて満ちてくる光の』がある。
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このエッセイ集は、梨木さんの初期の仕事をまとめたもので、彼女の豊饒な世界観をうかがい知ることができる。
とくに異彩を放っているのが「生まれいずる、未知の物語」というインタビュー記事。
これは、聞いて答えるというよりは、梨木さんとインタビュアーとの対話になっている。
日頃、草木や風など自然の移ろいの中で暮らし、かつ社会の動きにも敏感な梨木さん。どのようにして物語を紡いでいるのか。
『沼地のある森を抜けて』という作品をめぐって対話が進む。
ごつごつした流れ
インタビュアーの河田桟という方、ことばの質感がすごい。
ー読んでいる間、頭の中で電球がピカピカ光るような感じでした。この作品は、これまでの世界中のあらゆる著作物とまったく違う流れを持っているような気がしています。
さらに続けて、ものを語るときの、既存の枠組みに対する疑問を提起する。
ー哲学にしろ、科学にしろ、スピリチュアルなものにしろ、「こうすればこうなる」「こうすればよりよくなる」というある種のヒエラルキー的なロジックがあり、そういう同じ線上をたどる流れは限界に達しているにではないかと感じていました。
この「何か」を語るという行為のあり方について、梨木さんの返事がまた深い。
同じコンテキスト「文脈」の上で織られているものをすべて一度ひっくり返して、もっと次元の違うところに立たないと、もうここに至っては、次に何の可能性も無いような気がしますよね。
こうしてこうすればこうなる、という予定調和的な流れではなく、ごつごつしていてもいいし、流れが悪くてもいいから、とにかく確実な手触りがあって、「この流れの悪さは何?」と、自分自身じっくり立ち止まって眺め、そして読み手からも眺めてもらえるものを作りたいと思ってきました。
問題提起は鋭い。そして、その結果、梨木さんの回答がより深い解釈に到達していくところ、対話の妙で、読者もその対話のことばに導かれていく。
日頃、感じたことをどう理解したらいいのかは、私もよく思うことだ。
「こうだから、こうなった」「あの時、ああすればよかった」など、既存の因果関係で理解して、後悔することがよくある。
自分のこと、他人のこと、世の中のこと。すべての関係性はそんな単純な因果や論理で変化しているんじゃない、と教えてくれる。
流れが悪い「ごつごつ」って何だろう?
境界のゆらぎ
次は「境界」について。
ー梨木さんの作品には「境界のゆらぎ」のようなものを感じます。
・・・つまり、境界というのは、・・・あそこまで飛び抜けたら境界を超えられるというものではないと思うんです。まったく違う何か、それこそ自分の細胞を変容させて、違う生き物になるような感じでないと、向こう側には行けないのではないでしょうか。
でも、私は、無理に境界を突破する必要はないと思うんです。・・・
対話は続き、人が意図的に境界を突破するという話ではなく、望む望まないに関係なく、そう成らざるを得ないということが運命として見えてくるのだ。自分が被造物であることを受け入れるしかない、という話になる。
それこそ、ついスピリチュアルな話にもなりかねないと考えてしまうが、そもそも神話や宗教と科学の間には本当に境界はあるのか。科学の側から、あれはスピリチュアルなものだと規定しているだけの話なのではないか。
梨木さんは、自身は真っ裸で荒野の中に立っていると話す。ある専門分野の中で話を展開するという、「暗黙の了解」の「守り」がない荒野。
当然、隙だらけだが、物語としてなら通用するというのが強みでもあるという。
現在、梨木さんはある週刊誌でエッセイを連載している。それは主として草木の話題が中心になっている。他の作品でも植物やハーブの話題が多いように感じてきた(もしかして実は魔女なのかな?)
しかし、草木を描写しているが本当のモチーフは違うようだ。
どうやら草木は彼女にとってごく身近な存在の一つ、もちろん特別な親しみを覚える存在なのだが。
河田さんが指摘しているように、梨木作品のクオリティは、人間の種を超えるような感じがする。しかし、紡がれる物語はとても身近なもの。ふつうのことと、狂気みたいなものが同時に存在しているところが素敵なのだ。
自分自身という肉体の中に身近なごちゃごちゃしたことを収斂させて、今という時代に自分を織り込ませるように歩いていくことが大事だと梨木さんは書いている。
梨木さんは世の中を冷静に眺め、ごちゃごちゃとした多様な価値観を掬い取ろうとしている。エッセイは、自分の考えが主体になってしまうけど、物語なら、いろいろな価値観が並び立っている世界を、同一平面上に書くことが可能なのだ、ということばには力がある。
自分はなぜ人間として生まれたのか。
物事の理由なんて本当のところ、わからない。
梨木さんは言う。
意味の向こうにあるものをぐいっとこちらに引き寄せたい。
意味なんて、限られた常識の中のもの。
私たちの世界は、そんなスカスカの網では掬い取れない。
それを何とか、ことばで表現しようと模索している作家なのだと思う。
直観を信じ、草木や動物、世界中の人、あの世の人との対話を通じて、梨木さんが体得してきた、限りなく普遍的な世界観。
ぜひ読んでみてほしい(その前に梨木作品に触れて)。
実のところ、梨木作品は近づこうとしても、近づけないなと感じることがしばしばある。
でも近づきたい。理解できなくてもいい。
そこに身をゆだねたいという誘惑は抑えられそうにない…。