勉強しなさいって言わなくても勉強する子にどうやって育てたの?(12)
●息子の大学受験
K学院中学校に合格して、入学までにやっておく春休みの宿題が出ました。数学は中学1年生の範囲の問題集でした。これを提出したら中学1年生の数学は終了。授業は中学2年生の範囲から始まりました。
それでも、息子にとってはすでに小学生のときに独学で学習した範囲です。家では宿題に追われながらも、数学検定の次の級への勉強も楽しんで進めていました。
すでに小学生の時から学校の準備も宿題も本人任せにしていたので、中学生になってからも学校の勉強の詳細などは私の関知するところではありませんでした。ただ、中学生の間はかなりの量の宿題が出されていたようで、帰宅してからは宿題をすることに多くの時間を費やしていました。塾に行っているという友だちもいるらしく、息子は「塾に行って、いったいいつ学校の宿題をするんだろう?」と信じられない様子でした。
数学だけでなく、化学や物理などもどんどん新しいことを吸収し、本当に学校の授業だけで十分な学力をつけていただきました。中学3年生くらいになると、公立の中高一貫校で学んでいる2学年上の姉に、数学や化学でわからないことを聞かれるようになっていました。ときには息子がまだ習っていないことも姉から質問されていたようです。
娘「これ、全然わからへんわ~ちょっと教えてよ!」
息子「そんなんまだ習ってないで」
娘「習ってなくても教科書読めばわかるでしょ。読んで早く教えてよ~」
息子「じゃあ、自分で読めば?」
娘「自分で読んでもわからないから聞いてるんやん!早く教えてよ~」
これ、姉と弟の会話です。何だか無茶苦茶ですが、理系の科目であれば弟は自分よりも理解できているはず、習ってなくても自力で理解して私に教えろ、ということのようです。
まぁ、それでも結局は教えることができていたので、娘の無茶はそれなりに筋が通っていたのかもしれません。
そんなとき、私はいつも「Tくんみたいな弟がいて、Kちゃんよかったね~」と娘に言いました。娘は「ほんま、めっちゃいいわ!塾行かなくても家で聞けるからなぁ」そして時折「学校の先生もそんなふうに教えてくれたらわかるのに~」と息子の解説を絶賛していました。とは言いつつ、「そんな授業料の高い学校に行ってるねんから、私に教えるのは当然やわ」とも。
そうね、あなたの言うことも一理あるわね。私立の高い授業料を公立高校生の自分に還元しろと言うのね。でもね、教えてもらうのなら、もう少し謙虚に聞いたほうがいいわよ。優しい弟で本当に幸せね。
息子が、中学高校時代をどう過ごしたのかと振り返ってみても特別なことは何もなく、授業中はしっかり授業を聞いて、宿題はきちんと真面目にやって、定期テストも毎回真剣に取り組んでいた、ただそれだけでした。
中学時代は宿題があまりにも多かったので、同級生の中には、授業中に先生の目を盗んで、他の授業の宿題をしている子もいたようですが、息子は「先生がせっかく話しているのに聞かないのは悪いしなぁ」と言って、授業中に内職をすることなどできないようでした。
大学については、なんとなく京都大学を考えていました。京都大学に行けるかなぁというくらいの気持ちです。わざわざ東京まで行かなくても、と私が思っていましたし、そもそもK学院への進学を考えたのも、N中学に行ったら「東京大学を目指す」という雰囲気になってしまうのではないかと心配だったからです。
私としては、少しでも近くにいてくれた方が安心ですし、息子自身も「東京は遠い」と思っていたのではないかと思います。K学院がそもそも、進路については本人の意思を尊重する方針で、学校や先生が特定の大学を勧めて受験を誘導するようなことはまったくありませんでした。
学校も何も言わない、我が家ものんびりしている、そんな中で、模試などで志望校を記入する必要が生じたときには、とりあえず、本当にとりあえず、「京都大学」と書くようになっていました。
高校2年生の頃でしょうか、ふと「もしかしたら東京大学でも行けるの?」と思うようになりました。息子の学校の成績や模試の結果を見ていて、本当になんとなくそう思いました。
息子に「東大でも京大でも合格しそうだとしたら、どっち受けるの?」と聞いてみました。「東京遠いしなぁ。京大でいいよ。でも、東大なら理学部にするか工学部にするか、入試のときまでに決めなくてもいいな」「へぇー、そうなの?どうして?」東大の入試など調べたことのない母には初耳でした。
そこで初めて、東大の入試の仕組みと進振り(進学振り分け)について知ることになりました。
東京大学は、学部ごとの募集ではなく、文科一類、二類、三類、理科一類、二類、三類のように募集が行われます。 前期課程の2年間は全員が教養学部に所属し、後期課程で進学する学部・学科は、2年次に行われる「進学振り分け(進振り)」で決定します。
理学部か工学部か決めきれていなかった息子には、ありがたい制度ではありませんか。それでも、東京は遠いなぁ。本当はもう少し家にいてほしいなぁ。
しばらく私もいろいろ考えてはみましたが、やはり息子の人生です。「自分で決めたらいいよ。東大でも京大でもいいから。行きたい方にすればいい。」と伝えました。どちらにしても、家を離れて一人暮らしをすることになるのだから、と半ば諦めながら。
センター試験を1週間後に控えたある日、知人との数人での会話の中で、ふとした話の流れから「今年息子は受験生、来週はセンター試験」という話になったときに、「どこ受けるの?」と聞かれました。
私自身は、逆の立場であれば、そんな場面では相手に対して単刀直入に聞くことを躊躇ってしまいます。相手が言いたくなかったら悪いなぁと思ってしまうからです。
また、今までの自分自身の経験上、質問されたから単に事実を答えただけなのに、その返答を「自慢」のように受けとめられてしまったりして、こちらがしんどい思いをすることになったり、といったこともありました。
だから、基本的に私は職場などでは自分からは子どもの話をしないことにしていました。この場面は職場ではなかったのですが、思いがけず単刀直入に聞かれてしまいました。
息子の話などそれまでまったく話したことのない人からの質問だったので、「あ…えっ…?うちの子わりとよくできるので…」と、まだセンター試験も終わっていない、願書も出していない段階で「東大」と断定することに若干の躊躇があって口ごもってしまいました。
すると、「京大?」どこまでも単刀直入な人です。
黙って首をふると、「東大?」「はい」
今度は「えっ?東大目指してるの?」と聞かれました。
「目指してるっていうか…たぶん東大受けますけど。」
私が引っ掛かったのは、「東大を目指している」という言葉でした。
目指したわけではありません。だから、「東大を目指しているのか?」と聞かれれば、答えは「いえ、べつに目指してはいません。」となります。
「東大を受験するのか?」と聞かれれば、「はい、おそらく受験します。」となります。
子どもを、何が何でも東大に入れようなどと思ったことはありませんし、東大に行ってほしいと願って子育てをしたわけでもありません。息子自身もそうです。何しろ親が言わないのですから、目指すはずもありません。
好きなことを夢中にやってきて、毎日の勉強を普通に着実にこなしてきて、そうしたら、東大にも行けそうだったから、選択肢の中に入ってきただけです。決して東大を目指したわけではありませんでした。
でも、その場でその説明をしてもわかってもらえるとも思えなかったので、それで話は終わらせておきました。
センター試験も無事に終わり、まずまずの点数が取れ、予定どおり前期後期ともに東大に出願しました。
合格しても行かない大学を受験する必要はない、との息子の意見で、私立への出願はしませんでした。
それまでに受けた東大模試はすべてA判定だったので、よほどのことがなければ合格するだろうとは思っていましたが、とにかく無事に二日間の二次試験が終わるまでは安心できませんでした。インフルエンザにかかりませんように、交通事故に遭いませんように、当日お腹が痛くなりませんように、心配は尽きません。
自分が受験生のときに、模試で「阪大A判定」など取ったことのない娘は、「東大A判定って、なにそれ?そんな人ほんとにいるんや~」と言っていましたが、本人は本人で、模試でA判定しか取ったことがないのに、本番の入試で落ちたらどうしようというプレッシャーもあったに違いありません。
夕食後にテレビを見ながら息子に肩もみをしてもらうのは私の至福の時間でしたが、受験が近づいてくるとさすがに早々に切り上げられるようになっていました。「え~っ?もう行くの?もっと揉んでよ~」「もう少しテレビ見たらいいやん」受験生に言う母のセリフではないかもしれませんが、残り少ないであろう息子との時間が私には何より大切でした。
でもまぁ、早々に切り上げるようになったわりには、直前になっても息子は比較的のんびりしていましたが。
息子曰く、「現役生は直前1ヶ月で伸びるって言うけど、1ヶ月前と入試当日の実力にまったく差はないで。」あなたはそうかもしれないけど普通は伸びるでしょ、実際あなたのお姉さんは最後の1ヶ月で伸びたわよ、と母は心の中で言いました。
ところで、某予備校では模試の成績優秀者を「東大○○コース」に無料で招待してくれます。息子のところにもご招待のお知らせが届きました。相変わらず塾には通っていませんでしたが、テレビによく出ているあのH先生の授業も受けられるのなら、無料だし行ってみようか、ということで、高校3年時にときに4回ほど各3~4日くらい、現代文と物理の授業だけ出席していました。
その際にH先生が「どの時点で東大合格を確信したか、という質問を試験が終わった受験生にして、今までで最高にいい答えだなぁと思ったのが『二次試験2日目の会場について、自分の席についたとき』という答えだった。」と話されたそうです。
なるほどなぁと思いました。試験の解答を書くことには何の不安も持っていない、心配なのは何かのアクシデントで2日間の試験を無事に受けられないことだけ、ということです。だから、2日目の会場に無事到着したということは、自分は東大に合格したのも同然ということなのですね。
以前は、東大の合格発表のニュースをテレビで見かけたものですが、息子の受験の年は合格発表の掲示が中止となっていました。掲示場所近くの建物が工事中のため、掲示場所が確保できないということが理由のようで、インターネットでの発表のみとなっていました。
インターネットでの発表であれば、合格発表時に東京に行く必要はないわけです。そうすると、一人暮らしをする家はいつ探すのかということが問題になります。合格発表を見て、そのあとすぐに家探しをするといった従来のパターンが変わってきていました。
それならば、試験期間に一緒に東京に行き、子どもが試験を受けている間に家を探すというのが最も効率がよさそうです。
合格してもいないのに仮押さえなどできるのか、お金が余分にかかるのではないか、といった疑問は大学生協のホームページを見ていると解消されていきました。「合格前予約」ができる物件を大学生協指定の不動産会社が取り扱ってくれていました。
「試験で滞在する2泊3日の間に家を決める」これが私の仕事になりました。
試験1日目はホテルから東大の本郷キャンパスまで一緒に行き、正門の前で別れました。とりあえず、1日目の試験会場への到着を見届けてほっとしました。それからすぐに、生協の住まい探し相談会の会場へ。
この前日にも、東京到着後すぐに息子をホテルに残して、私一人で相談会には行っていました。しかし、多数の物件が掲示されているにもかかわらず、予算と希望をすべて満たす物件は数少なく、また、これはと思う物件はすでに成約済みとなっているなど、数時間では決めきれずにホテルに戻っていました。
住まい探し相談会の会場に到着してすぐに、前日に候補に挙げていた物件2件をとりあえず見せてもらうことにしました。地元の不動産会社の店舗まで電車で移動すると、不動産会社では、現役東大生が物件案内のバイトでスタンバイしており、徒歩で物件に案内してくれました。
1件目は駅からほんの2~3分で立地は良いのですが、バスルームのあまりの狭さに絶句し、ボツ。
2件目はバイトの東大生がスマホで検索しながら案内してくれているにもかかわらず、少々道に迷いながらの到着で「徒歩8分は嘘でしょ!」と思いました。
到着してみると、部屋は想像以上に広く、敬遠していた1階だったにもかかわらず、1階で考えられる短所、防犯上の不安や道路からの視線、日当たりなどの面はすべて問題なく、しかも、今回、床も壁もすべて張り替えてくれるとのことで、工事中の状態でした。
工事完了後の状態を見ていないということだけが少し不安でしたが、これは迷っていたらすぐに他の人が決めてしまうと思い、そこに決めました。一人で決断するには勇気が必要でしたが、前日夜の電話での夫への相談も、息子への相談も「わからへんわぁ~」と決断の決め手にはならず、生協の会場、近隣の渋谷の不動産会社の混雑を前日に目の当たりにしていたので、ここは私の決断が大事!と即決でした。
結局、実際に物件を見たのは2件だけです。結果的には、総合的に見てそこに決めて正解だったと思っていますし、息子も満足していました。家探しの私の条件が満たされる中で家賃を抑えるには「バストイレ別」の条件を外すしかなかったので、そこだけ我慢してもらいましたが、息子的にはそこは全然問題なかったようです。
ところで、実は私はネット上ではすでに8月から家探しの下調べは開始していました。まず、東京のことはまるでわからないので、地理から勉強しました。
駒場キャンパスの位置、本郷キャンパスの位置、東京の路線図の把握、通学に適した範囲の検討などです。自分なりに、どのあたりで家を探したいかを決め、息子にもその都度意見を聞いていました。もっとも、息子はまだ受かってもいない段階ではそのようなことにはまったく関心がなく、何を聞いても「わからない」くらいの返事でしたが。
次に、どの程度の家賃でどのような物件があるのかということを確認していきました。調べれば調べるほど、最初に考えていたより家賃の上限と考える金額は上がっていってしまいました。
それから、すべてに満足できる物件は難しいので、どこを諦めるかということも考えました。私が一番重視したのは耐震性でした。娘がまだ幼いときに阪神淡路大震災を経験しているので、地震での建物倒壊がどれほど恐ろしいことか、それは十分認識しています。
耐震性の点だけは何が何でも譲れなかったので、木造ではなく鉄筋のマンションが希望でした。耐震性を考慮した比較的新しい物件であれば木造でも問題ないのだろうとは思いますが、震度7の直下型地震がきても倒壊しないであろうと思われる建物でなければなりませんでした。
木造家屋も、鉄筋のマンションですら、一瞬のうちに壊してしまう地震の威力を目の前で見たからこそ、家は潰れる可能性があるのだと疑って見てしまいます。
震災当時の我が家は、かなり山側にあって、宅地造成のために山を切り崩したあとの強固な岩盤の上に建てられていたので損壊は免れましたが、車で5分も下ると多くの家々は見事に押し潰されていました。
1995年1月17日の朝5時46分、損壊を免れた我が家でさえ、すさまじい揺れを経験しました。
5階建ての鉄筋コンクリートのマンションの一室で寝ていた私たちは、ベッドの上で体が飛び跳ねるような縦揺れで目を覚ましました。
「これ、地震?」と叫びましたが、普通に考えられる地震の揺れとはまったく違っていました。私は真剣に、ウルトラマンに出てくるような怪獣が外から我が家を揺さぶっているのだろうかと思ったほどです。
家具が倒れなかった我が家でさえこれですから、震度7の激震地区での揺れがどれほどすさまじいものであったかと思うと、想像を絶します。家具こそ倒れなかったものの、我が家でも家じゅうのすべての家具は、揺れの影響で数センチ単位で移動し、ダイニングの吊り下げ式の照明は、地震の揺れで振り切れて天井にぶつかって、粉々に割れていました。
激震地にあった私の実家では、テレビや冷蔵庫が部屋を飛び、ほぼすべての家具は倒れ、実家から直線距離で数十メートルのところにある阪急電車の線路は、高架上から隣接する道路の上にぐにゃっと折れ曲がって落ちていました。
高校時代の友人の実家では、その激しい揺れの中、2階で寝ていたお母さんとお姉さんが、転がり落ちるように階段を下りて、1階で寝ていたおばあさんを連れて玄関を出たとたんに、3人の後ろで家の1階が押し潰されてなくなっていたという話も、後に聞きました。
一瞬の判断が生死を分けるのです。
今、これを書いていて思い当たりましたが、私が日頃から、一瞬の判断が生死を分ける、こんなときはこうするのが良い、こんな事故のときの対処法は、などと子どもに対してとにかくいろいろなケースを想定して話すのは、阪神淡路大震災の記憶と恐怖が心に刻まれているからなのだと思います。
また、日頃は子どものことに決して過干渉ではない私が、この家探しに関しては恐るべき執念で周到な準備を行ったのは、地震に対する恐怖がそうさせたのだと思います。何しろ、関東平野の地盤のことから調べましたから。
地盤のことを調べているうちに、活断層に関する論文に行きつくこともありました。goo地図で明治、昭和22年、昭和38年の古地図が見られることに気づいてからは、物件検索の際には必ず古地図も確認しました。もともと地図を見るのが好きだったこともあり、東京都内ありとあらゆる場所を古地図上で巡りました。建物の耐震性も大切ですが、地盤も大事、その信念で家探しをしました。
私は20数年経っても、あの倒壊家屋の風景と、高台にある自宅ベランダから見た地震後の火災で燃えさかる街からあがる真っ黒な煙を忘れることはできません。
東京の不動産業者さんも言っていましたが、家探しの際に「耐震性」を一番気にするのは、神戸の人だそうです。寝ているときに起こった地震で、倒壊家屋の下敷きになって子どもが死んでしまうことだけは避けるのだと、とにかくそれだけを考えて家探しをしました。
そうして、息子はまったく見ることなく物件を決めてしまったわけですが、2日目の試験を終えて新幹線に乗る前に、家を見ることのできるように手配をしておきました。
試験会場から不動産会社に直行し鍵を借りて部屋を見せてもらいました。物件を決めたその日に、一人で駅と物件の間を往復して確認してあったので、すでに暗くなっていましたが迷うことなく到着できました。
次に来るときは引っ越しの日になるので、家具の配置やカーテンのことも考え、あらゆる箇所をくまなくメジャーで長さを測りました。今思うと、この時点で私は息子がこの部屋に住むであろうことをまったく疑っていなかったようです。なにしろ、帰りの新幹線では家具の配置をほぼ決めていましたから。
何事もなく無事に試験が終わり、あとは合格発表を待つだけとなると、息子はのんびりとしたものでした。
「たぶん大丈夫だと思うけど。」とは言うのですが、それ以上は何も言いません。自己採点をする気配もありません。
いくつかの予備校から「再現答案提出」の依頼があって、入試本番の答案を再現して提出すると図書カードがもらえます。しかも結構な金額の図書カードです。再現答案もぎりぎりになってやっと提出したようでした。
「後期の勉強は?一応何かしないの?」と聞きましたが、結局ただただのんびりと過ごしたまま合格発表の日を迎えました。
平日だったので、夫も私も仕事、娘は春休みだけれど学校、息子が一人で家にいました。正午にホームページでの発表だったので、私は昼休みに入ると同時に職場のパソコンで検索しました。
息子の受験番号はたぶんあるのだろうと思いながら、娘の合格発表のときのような緊張感はあまりなく、わりと淡々とした気持ちでした。番号を見つけたときは、ほっとしたのと同時に、これで息子はもうすぐ家を出て行ってしまうのだという寂しさがこみあげてきました。
それと同時に、引っ越し準備、東京の住居を整えること等々、仕事も年度末で多忙な時期に、時間をやりくりして短期間にこなさなければならない山のような仕事の段取りを考える忙しなさに、感傷に浸る気持ちが追いやられていきました。
自宅のiPadで、一人で合格を確認した息子からは「受かってたよ」とだけメールがきました。
大学受験のために親がしたことはありません。子どもから、どうしようかと相談されたこともなかったような気がします。ただ一つしたことがあるとすれば、「東京でも京都でも行きたい方に行けばいいよ」と言ったことくらいです。
息子が小学生の頃から「東京は遠いから東大には行かなくていい」と何気なく言っていた私の言葉が、きっと息子のどこか頭の片隅にあるのではないかと思っていました。
私は、本当は息子にはできるだけ、少しでも自分の近くにいてほしいと思っていましたが、息子も気づかないくらいの頭の片隅にある私の言葉が、彼の選択肢を狭めてしまってはいけないと思いました。
自分の人生は自分で決めなさい、そう思って「東京でも京都でも行きたい方に行けばいいよ」と言いました。
(次回は「●親が一生懸命に生きること」)