中学面談と前例踏襲
今回の記事は、学校の先生への投げかけになる。そして、学校で生きづらさを抱える子ども、保護者への投げかけでもある。学校とはもう関係ない、という大人も含め、みんなで考えたい、今の学校の問題提起だ。
たこの逡巡
長男たこ・長女ぴこ・次女ちぃは、不登校をしている。
たこは現在小学校6年生で、4月から中学校に上がる。小6の夏休みに、色んな選択肢を提示したが、たこは友だちが多く進学する、地元の中学を選択していた。
母は事前にたこに話をした。
今日は、中学校に行って、話をする。自転車通学が許可されるのか、不登校が高校進学にどれほど不利になるのか、内申点を確保するために必要なことはなにか、家で勉強できるICTの取り組みはどの程度進んでいるのか、色々聞いてこようと思うよ、と。
中学校との面談に、たこが来るか来ないか、「自分で決めなさい」と母はたこに告げていた。たこの人生だ。必要だと思えば来ればいい。
夫はたこに言った。
「今回の面談は校長先生も同席するんだよ。これはとても貴重なことだ。たこ、一緒に行って、話をしない?」
たこは、「パパは、おれが中学行かなかったら、ゲームをまた制限しそうだね。行くよ。」と言った。
夫は、不登校のたこが、日中ゲームをしたいが為に、学校に行かない部分も少なからずあるだろう、と考えていて、ゲーム時間は学校の時間は許可するべきではない、という考えが強い。
母は、たこに言った。
「たこ、どんなにいい条件を積まれても、自分がやりたくない、と思う仕事はしてはいけないよ。1億円もらったって、人を殺せないでしょ。校長先生が来るからって、たこは自分の心を殺してまで、参加することは無いと思うよ。自分にとって、必要だと思うなら、少しでも有益だと思うなら、一緒に行こう。」
たこは、当日の昼まで返事をせず、結局、中学の面談には「行かない」ことを選択した。
中学校面談
教員の専門性
両親は、中学校で会議室に通された。同席したのは、校長先生、3年学人主任、3年教育相談担当の3人の先生だった。
たこの通う中学校は、学年担任持ち上がり制で、今年の3年担任陣が、来年の1年生を担当するというシステムのようだ。
まず、学年主任に、現在のたこの様子を聞かれた。
たこはまず、定義で言う所の不登校であること。たまに小学校へ行き、用務員さんと畑を作ったり、校内の備品整備のお仕事をしていることを告げた。
学年主任は、「ほう」と用務員さんと学校で過ごす事例があるのか、と新しい話を聞いた、というようなリアクションをとった。
校長先生は頷きながらその話を聞いていた。中学校でその事例はあるか確認すると、こう答えた。
「中学校では、用務員が生徒を見るという事は、前例がありません。我々教員が、生徒を見るのが大前提です。我々教員は、生徒の教育・心理を学び、専門性があります。用務員さんに、生徒を見る専門性は無いじゃないですか。我々教員には、生徒をみる責任があると思って接しています。」
なるほど。校長先生の気概は受け取った。
しかし、母は、用務員さんとたこが小学校で過ごす様子を見ていて、用務員さんに子どもを見ることが出来ないなんて、思ったことは一度もなかった。
用務員さんは、用務員さんの立場で、『人と人』という観点で、たこの話を聞き、一緒に畑を作ってくれた。
「たこは、ここに居て良いよ。おれ、手伝ってもらえて、ほんとにたこが居てくれて助かってんだ。」とたこに伝えてくれていた。
学校に来たからには、教室で授業を聞きなさい。授業に来たからには、黒板を見て、話を聞きなさい。教員の一部には鉄壁のガードでそれ以外を許さない人も中にはいる。
果してそれは、『人と人』の観点だろうか?『管理者と奴隷』に近いのではないか?と思う事すらある。
実際にたこは、教室に居た頃、「おれは学校に軟禁されている。」と言っていた。
そんなことも考えながら、母は、その専門家の気概、具体的に見せてもらおうじゃねぇかと、言葉を続けた。
「教員の専門性は、本当に尊敬に値します。私は不登校の子どもたちを抱え、家で勉強を教えようとしましたが、私には出来ませんでした。
先生方の高い教育スキルがあってこそ、子どもたちの学びは深まっていくのだと、感じております。私は、先生方の専門性のお力を是非お借りしたいと思っているのです。不登校という状況ではありますが、学校を必要としております。
この中学校で、先生の専門性を発揮して、不登校の子を導いた実例をお伺いしてもよろしいですか?」
校長と2人の先生が顔を見合う。誰が発言する?とアイコンタクトをとっているようにように見えた。
「不登校に限らず、学校には色んな事情の子が居ます。実例はいくつもありますが、個別的過ぎて…。その子に合わせて、対応しております。」
とのことだった。わかりました、と。個別対応は大変ありがたい。母が、具体的な相談をここで持ちかける。
個別具体的な対応
「個別的な対応をされていらっしゃるということ、とても頭が下がります。我が子がそのことについて、まずここでご相談したかったのが、自転車通学の許可についてです。」
母は、たこと歩いて、夏休みに中学校に見学に来ていた。徒歩で45分かかった。グーグルマップで検索をかけると、2.3キロ~2.5キロの道のりだった。教育委員会に問い合わせもしており、自転車通学の規定は、校長采配によるものだとリサーチしていた。校長同席の今、絶好のチャンスだと思った。
母が、距離、時間、教育委員会の回答などを伝えると、校長は答えた。
「我が校では、自転車通学は許可しておりません。越境の子もおりますが、安全面を考慮し、公共交通機関を使用するようお願いしております。」
母は校長先生が危惧されるところの、『安全面』をクリアにするために、保険に入ったり、ヘルメットをかぶったり、そういった配慮は保護者の責任で行います。と告げたが、校長は、言った。
「お母さん、この学校では前例がありません。ということは、“徒歩で通えることが前提に学区が組まれている”ということなんです。なので、自転車通学は認められません。」
母は、『前例がないということは、言い訳に過ぎない』と小学校の校長を見て思っていた。校長と言う立場で、変えようと思えばいくらでも変えられることを、全国の公立校の事例も踏まえて知っていた。
「校長先生は、通勤に2.5キロ、毎日歩くことが出来ますか?学校に来たい気持ちがあっても、通学そのものがネックになっている場合、そこは個別配慮に当たるものなのではないでしょうか?」
校長は言った。
「我が校では、生徒の安全第一で考えております。例え自分の家が遠かろうが、それが『決まり』であるのであれば、私は守ります。それが学校のルールですから。」
前例を変える気が無いことを、公言した。母には、『安全面』を盾にして、逃げたように思えた。
学校の本来の目的、一番大事にしなければならないことは何か。
母は、学校は『学ぶ場所だ』と強く思っている。
通学の安全性は、必要だ。しかし、中学生が自転車に乗って、必ず事故にあうというものではない。小学生の現在、子どもはチャリをかっ飛ばして遊びに行き、無事に日々帰宅している。結局責任逃れだと感じた。そこは、保護者の責任であっていい、と告げているにも関わらず、考えようともしない、悪しき前例踏襲だと感じた。
中学校の取り組み
個別具体的な配慮をしている、具体例をまだ聞いていなかったと思いだし、その個別対応について、深堀りしようと話を進めた。
教職員が専門性を持って生徒に対応する、ということだが、様々な理由で教室に居るのが辛くなった子は、どういった配慮がされているのかを聞いた。
相談室で過ごす。というのが回答だった。毎日相談員がいる、SC(スクールカウンセラー)が週2で来る、手厚いでしょう?と、とても誇らしげに話す。
相談室が合わない子は、どこで過ごしているのだろう?用務員さんにも頼らず。図書室も大人常駐ではないので許可できないという事だった。
結論、教室にも、相談室にも居られない子は、お家でどうぞ、という話になる。
安全面をすごく押してくるな、と感じた。中学生にもなって、図書室に一人で居られない、そんなことすらも生徒の意思が尊重されないものか、と愕然としたが、責任があるの一点張りだった。
では、学校がどうしても辛くなって、帰宅を選択した場合、両親共働きで、送迎は大変に難しい状況なのですが、どういった対応になりますか?と聞くと、
「保護者に電話連絡のもと、生徒は徒歩で帰宅させます。」
とのことだった。安全面良いんかーい!!とズッコケだが、結局そういうことだ。ことなかれ主義だ。
公立校の存在意義
学校が合わない子はいる。学校の中にも、授業が合わない子は、当然いる。レベルの問題もある。授業内容がさっぱり分からず、授業が苦痛な子。分かっていることを繰り返され、内職をしている子。そもそもその単元に興味が無い子だっている。
さて、今の社会ではどうだろう?自分のレベルに見合わない仕事を、学校教育の延長で続けた結果、その苦しい大人はどうなっているだろう?
一方で、自分のレベルに合わないと感じ、行動力のある人は、自分の力で、異動や転職をして、環境を変えている。
そしてまた、話は学校に戻る。
自分に合わない環境に身を置くことが、子どもの健やかな成長を阻害する可能性があることは、なんとなくお分かり頂けただろうか?
ここで、それならば、『転校』させてやれば良いだろう、それが子を良く知る親の役目だろう。という意見も聞こえてきそうだ。
ここでの問題は、公立校というところだ。
地域の多様な状況下に置かれた子どもたちが学ぶ場所が公立校だ。
家庭の環境、親の経済状況、越境できない事情もある。
子どもは、親の許容範囲の中でしか、ものを選べない現実がどうしてもある。
おいおい、公立校に何熱くなってんだよ。モンペかよ。と言われるかもしれない。勉強したいなら塾行けよ。って。
しかし、塾や私立やフリースクールを選択をできない子がどうしたって居るのだ。そんな子を救えるのは公立校しかない、と私は思っている。
公立校で働く先生の『思い』『教育の核心』は是非お聞きしたい。
先生個々人の熱量は、子どもに大きく影響する。
学校は何のためにあるのだろう?未来を担う子どもたちが、教育を受けるためにある、と思う。これに対しての異議は少ないだろう。
先生も、親も、子も、「学ぶ為」に学校があると思っている。
では、その「学び」は誰のための学びだろうか?私たち大人は、誰に学んで欲しいと思っているのだろうか。子どもでしょ?
子どもが学べない学校は、学校の役割を果たしていますか?
ルールは、何のためにあるのか。特に学校内のルール。法律に触れるわけでもないのに、用務員とは過ごせない。図書室でも過ごせない。制服も体操着も指定。一番過ごしやすい服すら自分で選べない。
自己主張できない様に、枠に閉じ込めるように、それが社会で生きていくために必要であるかのように、私たち大人は洗脳されていないか。子どもを洗脳していないか、そんなことを最近考えてしまう。
ルールを守れない子は、ワガママなんだ。そうだとして。親の躾がなってない。そうだとして。いやいや、先生の質の問題でしょ?学校が遅れてるんだよ。そうだとして。その“他人のせい”議論は、誰得?って話。
学習指導要領とCOCOLOプラン
文科省がおろしている教育課程の学習指導要領は、
『主体的で対話的な深い学び』を目標として定義している。
今、学校は変革期で、先生たちは研究をし、子どもの為に授業改革を行っている学校も多くある。
多種多様な子どもたちの学びを実現させるため、教育委員会が不登校児の為にICT教育に乗り出し、授業配信をしている市もある。教職員の『教育観改革』のために研修やディスカッションを教育委員会主導で取り入れている市もある。
動いている所は確かに日本に存在しているのだ。しかし、我が子だ。我が子は、学区内の徒歩圏内のこの中学にしか通えない。子どもは親の許容範囲の中でしか、選択することができないのだ。
今、我が子が通おうとしている中学校は、『主体的で対話的な深い学び』について、どれほど真剣に向き合っているのだろう。
深い学びを得るより前の、通学に躓いているくせに、何言ってんだ!と思われるかもしれないが、深い学びが得られる保証があってこそ、2.5キロ歩けるってもんだ。
不登校児拡大の教育危機を受けて、文科省が『誰ひとり取り残されない学びの保証』を掲げたCOCOLOプランというものがある。
学びの最終目標は『自立』だと提唱している。
不登校の保護者達は「学校に行かなくても、大丈夫なんだ!」「教育の権利って、親が受けさせる義務と、子どもが受ける権利を持ってるってことなんだ!選んで良いんだ!」と浮足立った。
これは、保護者や子どもが言う分には良い。しかし、学校という立場で「学校以外の居場所へどうぞ」というのは、違うんじゃないかな?と思う。学校は、絶対的に、全ての子どもの学習を保障する機関であって欲しいと思う。
追記
私は、小学校で沢山の先生たちに、我が子たちを見守ってもらって、心を寄せて頂いて、本当に感謝している。
不安定・不登校の親として、学校に通う中で、先生方の多忙さ、一生懸命さ、誠実さはヒシヒシと感じている。
だから私は、学校にすべてを丸投げするつもりはない。可愛い我が子の成長の責任を、学校があれもしてくれない、これもしてくれない、と責める気は一切、全くない。
きっと、学校と対話を重ねる中で、母ができることは見えてくると思っている。先生や、学校をバックアップできることが、一保護者だからこそ協力し合えることがきっとある!と思っている。対話を続けていきたい。
たこが通う中学校には、不登校新入生のどえらい保護者が来た!と思われたかもしれない。けれど、この4月から3年かけて、学校とタッグを組んで、たこの成長を見守りたいと思っている。
自分への教訓
『主体的』とはいうものの、自分に『主体性』はあるのかな?相手に『主体性』を求めているばかりでは、自分は主体的ではないよね。
答えが簡単にでない問題だからこそ、『対話』をすることが大切なんだ。