Uターン後の生活
長男たこ、長女ぴこ、次女ちぃは、激しく不登校だった。今年の4月、進学、進級した子どもたちがやっぱり学校に行かない。無気力や癇癪や落ち込みが日々繰り広げられ、家族でかなりこじらせていた。母は結構、参ってしまった。
【移住】
この6月、私は子どもたちをつれて、田舎へのUターンを決意した。
母が4月末にバーンアウトしてから、3週間。異例のスピードで決断し、最後の力を振り絞って引っ越しをした。
子どもたちは、海や山に囲まれた自然豊かな環境に、活力を取り戻しているように見えた。学校は、相変わらず行き渋っていたけれど。
Uターンなので、この土地には母の実家をはじめ、親戚、友人が多くいる。小学校の近くの借家に引っ越しをしたので、街なかで立地もよく、実家からも親戚からも大人がたくさん集まる家になった。
学校に行き渋る子どもたちを、じいちゃんやばあちゃん、親戚のおばちゃんが、毎朝我が家に集結し叱咤激励して送り出してくれた。
移住して環境が変わったからって、『学校が嫌い』がそう簡単に『好き』に変わるわけはない。子どもたちははじめはやっぱり辛そうに、目に涙を溜めて登校した。
「この子達は、どうして、夜は元気なのに、朝になると死んだようになるんだろう?」
「学校の何がそんなに嫌なんだろう?」
親族は口を揃えた。けれど、不登校を2年以上も経験していたって、この問の答えはわからない。本人たちにも。親にも。
「親の責任だよ!甘やかして育てたんだろ。なんでも良いよ良いよって。大概にせんなんよ。ただのわがままだよ!」
「仕事仕事で放っておいたら、子どもも、学校嫌!って行かんなるわ。愛情不足さ!」
子どもへの憤りは、親への意見になる。甘んじて受けなければならないとは思いつつ、これは万策尽くしてきた母にとっては結構辛い言葉だ。
【自由主義】
私の子育ては、結構誤解されることがある。
子どもの自由を重んじて、好き勝手させてきた、という誤解だ。
私の中では、『主体性』を大切にしてきたつもりだった。そして、一貫して崩さない絶対のルールもある。
「人を傷つけないこと」「自分を傷つけないこと」
だから、小さい頃はどろんこになろうが、高いところに登ろうが、危険のないよう見守りながら許容してきた。
子どもが小学生以上になった今は、”言いたいことを主張する”も許容している。話し合って、お互いの思いをすり合わせれば良い、と考えているからだ。
けれど、世代が変わると、これは『ワガママ』に映る。『言うことを聞かない生意気なやつ』になる。
相手の心をザワつかせてしまう表現方法をとってしまうことについては、まだまだ練習が必要だな、とは思うけれど、子どもが大人に物申すことについては、「よく言えたもんだ」という、我が子に対してちょっとした尊敬も私の中では芽生える。
これは、じいちゃんとちぃの話。いつも喧嘩をする。ちぃは、思ったことをはっきり言ってしまう。勝ち気なじいちゃんに向かっても忖度なく。
「素直じゃねぇ!」「はい!っていう返事を聞いたことがねぇ!!」とじいちゃんはちぃを怒る。
でも母は、ちぃは兄妹で一番素直に育っていると思う。自分の意見を言える、考えていることがしっかりあるのは、とても有望だと感じている。
でもじいちゃんは、「外でもこんなに生意気じゃ、この子が浮いてしまう。大人や友達の話も聞けるようにせんきゃ、いっつも誰かとぶつかる。」という。ちぃの行く末を案じた親心(じじ心)もまた理解できる。
じいちゃんとちぃの間で、こんなやり取りが毎回起きる。私はそれはそれで良い、と思っているが、ここからが私の脆さになる。
「親が教えんで誰が教える?親が怒らんから、この子は学べんだろ」
「自由にのびのびはいいけど、わがまま放題で学校に行かんだろ。」
心がきゅっとなる。ちぃは間違いなく素敵な子だ。それは自信をもって言える。けれど、親に問題があって、ちぃが生き辛くなっているのだとしたら、私の働きかけは間違っていたことになる。確かに私は、忖度や処世術を彼女に説くことはない。
「じいちゃん意地悪!話も聞かないで怒るし嫌だ!!」と泣くちぃに、じいちゃんにはこんな考えがあるんだよ、と説明するだけだ。
「親が怒れ!甘いんだ!!」と言われると、否定できない。『人を傷つけない』という絶対の約束を、じいちゃんに嫌な思いを背負わせている以上、私自身が守れていないことになる。私がちぃを抑制しなかったために、じいちゃんに嫌な思いをさせているのだから。
でも、子どもは親の”作品”ではない。一人の意思をもった人間だ。親の管理下で制御できるような便利な感情を持ち合わせている子どもは、我が家の3兄妹には一人も居ない。とても手こずって今までやってきた。
【親の管轄】
子どもに手こずっているのは、親の責任?自業自得?それを躾というの?
私は、子育てに自信がない。
それは本当に私の脆い部分だ。私の至らなさのせいで、子どもが生きづらくなって、じいちゃんたちに迷惑をかけているのだとしたら、とても悲しいし辛い。
だから、子育てのことを詰められると、涙が出てくる。
我が子達はみんないい子なのに。うまく伝わらない。生きづらさを抱えているのは、母である私のせいだ。って。
でも、冷静になると思う。子どもと親は別物だって。子どもには子どもの人生があって、自分で学んで行くことしか身にならない。親がどんなに厳しく躾たって、子ども自身に響かなければ、なんの意味もない。
不登校を2年以上経験して、やっと移住を決断して環境を変えた。子どもたちは、自然豊かな環境で以前よりは格段にのびのび育っている。
それでいい。それで十分だ。私はわたしの高評価を得るために子育てしていたのではないし、私はわたしなりに勉強して、子どもたちとぶつかったり和解したりしながら精一杯やってきたのだから。
移住して、たくさんの大人に子どもたちが触れる機会が多く持てたことは、大きな財産だと思っている。おばちゃんもじいちゃんも、人生の先輩に屈託ない意見をもらえることはありがたい。しかし、親族だということをいいことに遠慮なしに物申す奴ら。本気で歯に絹着せなさすぎてえぐい。
でも、こうやって愛情のもとで揉まれながら育つことは、子どもたちにとって良かったな、と本気で思う。
ただ、私自身はとても打たれ弱いので、子育てについての提言は、おてやわらかに願いたい。