情熱はない。興味はある。
一つのことに没頭して頑張っている人は、素晴らしいと思う。
苦しいことや嫌なことがあってもくじけず、頑張って乗り越えてその活動を継続している。
その情熱をずっと持ち続けていることが、スゴイと思う。
それに比べて自分は……。
もう50も過ぎているのに、あんなふうに情熱を持てるものがない自分はダメだと、心の奥で感じてしまう。
ここ数年、そう感じることが増えた。
ときどきSNSで精力的に活動している人たちのまぶしい姿を見て、なんとなく落ち込む。
わたしは、一つのことに熱く長く打ち込むより、ちらっと興味があることをちょっとやってみて、もっと知りたいと思えば突き詰めるタイプ。
だからわりとクールな感じで淡々と続ける。
でも続けるといっても、「一生これ!」みたいな覚悟はなく、「その興味が続いている間」限定。
しばらく前は、そういう生き方はなんとなく安直で良くないイメージがあった。
今は、良かろうが良くなかろうが、自分はそういう人間だと開き直っている。
興味が向くほうに、エネルギーを注ぐ。
それが、短期スパンで変わってもかまわない。
「淡々とクールに」でもかまわない。
情熱を持ってコトに当たっている人もいるけど、わたしはそういうタイプではない。
それでいい。
「それでいい」という感覚こそが、わたし自身を安定させてくれる。
先日、ブレネー・ブラウン著 Atlas of the Heart のブッククラブがあり、読んだ章の中に「self-insecurity 自分に対する不安」「self-security 自分に対する安心感」というキーワードがあった。
興味の対象が短期間で変わっていく自分について、あなたはそれでいいと言ってもらえる気がした。
この本の読書会で、エリザベス・ギルバート(ジュリア・ロバーツ主演で映画化された小説『食べて、祈って、恋をして』の著者)の講演動画を教えてもらい、さっそく視聴した。
動画は、一つのことに情熱を注ぐ生き方ではなく、興味の対象が変わりながら生きていくことを伝えている。
登壇者のギルバートはそれまでの講演で、ずっと「子どもの頃からの夢だった作家になれたのは、書くことへの情熱を追い続けたからだ、情熱を追うことが大事だ」と説いていた。
ところがオーストラリアでの講演で、ひとりの参加者から感想をもらい、この考えががらりと変わったという。
その感想は、こんな内容だった。
「自分にはあなたのような情熱を持てるものがない。この年になっても情熱を持って没頭できることを見つけられていない自分が恥ずかしい。自分は、たくさんのことに浅く興味を持ち、それらを試して興味が深まればもっとやってみる、興味がなくなれば次にうつるというタイプの人間だ。救いを求めてこの講演に参加したのに、2時間あなたの話を聞いて、自分にはとても大事なものが抜け落ちた、救いようのない敗者だ感じている」
そこからエリザベスは、情熱を追うのではなく、好奇心を追うことの大切さを説くようにしているそうだ。
いろんなものに興味を持って、これを試して次にあれを試す、その試したことが合わさって、その人独自の経験・人生を積んでいく。
まさに、最近のわたしはそんな感じだ。
興味が向くまま、やってみたいことをやってみる。
その積み重ねで、どんな自分になっていくのか。
それも人生の楽しみだ。