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完璧主義と恥の関係

完璧主義のモトは恥

ブレネー・ブラウンのThe Gifts of Imperfectionを読んでいる。
完璧主義についての章はとても心に響く。

完璧主義のモトは「恥」の感情だ、とブレネーは言う。
完璧な自分でないと、バカにされたり責められたりするのではないかという「恐れ」がある、というのだ。

ブレネーは完璧主義を「20トンの盾」と言っている。
批難や叱責、軽蔑などの恐れから、自分を守るためのおもーーい盾。
逆に言うと、完璧な自分でいられたら、それらから傷つく可能性を小さくできる。

自分へかける言葉の違い

人から批難されたり見下されたりしないために完璧を目指すのと、本当に自分が成長したいために完璧を目指すのとでは、頑張り方も、気持ちも、自分に放つ言葉も違うはず。

たとえば前者は、自分の足りないところを責めて、「こんな自分ではダメだ、もっと人から認められるようにならねば」と自分に言うだろう。人から承認を得るために、その人の「合格ライン」をいつも気にすることになる。でもどんなに頑張っても、その人から承認される保証はない。人は人、自分とは感覚が違うのだから。

後者は、「自分の今の状態はこうだ。なりたい姿はこうだ。それに向かってやるべきことは何だろう。どうすればやれるだろう」と考えるだろう。頑張っている最中は大変だろうが、自分で望んで頑張っているのだからこれは健全な努力だ。

完璧主義だった自分

以下はわたしの話だ。
子育てが落ち着いてきたころ自分で仕事を始めたいと思い、起業を目指すママの集まりに出かけるようになった。
子育てしながら、得意なことを仕事にしようと学ぶママたちがいて、とても刺激的で楽しかった。
でもその集まりのことを、夫には言えなかった。
何となく知られたくなかった。
「起業を目指すママの集まりに行く」と言うのが恥ずかしかった。

何も隠さなくてもいいのに、当時のわたしは、夫に「何が起業だ、どうせ主婦の集まりだろ」とバカにされるのを恐れていた。
夫は意地悪な人ではないのに、わたしはそのようなひねくれた見方しかできなかった。

当時のわたしは、「家事がいい加減なくせに、自分のやりたいことを優先してる」と自分を責めていた。
それだけでなく、他にもいろんな気持ちが混在していた。
家事も起業も中途半端な自分が恥ずかしい。
そんなダメな自分を認めたくない。悔しい。もどかしい。
会社で活躍している夫がうらやましい。

「ちゃんと家事をこなして、仕事して稼いでいる自分」という完璧な理想の自分と、それとはほど遠い現実の自分。

完璧な理想の自分を目指して頑張っていたつもりだけど、その自分には常に、不完全な自分、恥を感じていた「ダメな自分」がくっついていた。

ブレネーの言う通り、完璧主義と恥は、表裏一体なんだな。


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