食べもの、食べ方の在り方2
(食べもの、食べ方の在り方1 より続き)
そもそも、日本に住んでいた中で
スーパーにきれいに並んだ卵や血の気のないお肉の塊をみて
そこに動物の姿、生き物であったことを感じなかった。
いつまでも傷まない色鮮やかなコンビニのごはんをみて
家で作ったおにぎりがこんな味にならないのをわかってても
これらは一体どういう過程で、
どんな材料が加えられているかという発想にならなかった。
そんな中オーストラリアで
ベジタリアンなど食べないという選択をしている人たちの考え、出会いや自然に囲まれた生活の中で
自然と自らの摂食障害、 食に対する考え方、心の変化を体感した。
血のついてない、動物の原型を留めていない肉の塊をみて誰もそれが生き物であったことも想像できない。
ドキュメンタリーや自分で調べたり、体験したことから
その生き物がどうやって育ったのか、
その生き物が食べてきた、生きてきた環境、受けてきた感情がお肉には含まれていて
その全てのエネルギーが
お肉を食べるという行為に含まれていると感じた。
感情とかエネルギーなんていうと
スピリチュアルだなんて言われそうだけど
感情やエネルギーという言葉はなくしても
その動物が家畜として生まれ
美味しいお肉に成長するように餌や
成長剤のようなものもとって育ち
(私は直接見たことがないので、もしかすると)あまり清潔ではない環境や自由に歩き回ることのできない環境で育ったとしたら、
私はその動物がかわいそうという以前に
その動物のお肉を自分の身体に入れることが私にはできないと思った。
「いただきます」と言っているから、とか
言えば食べ物、食材に感謝をしてる、とか
ちょっと違うと思っていて私はそういうことじゃないかなぁ、、
たしかに昔だったら
魚中心の食事で自分たちで食べられる量だけ獲って
家族や地域で、分け合っていただく。
動物はたまに食べるご馳走だし
そんなにたくさん食べられるものではない。
誰かが野生の動物を狩ってきたものを
みんなで分け合っていただく。
こんなことが食事であり、当たり前だったけれど、
これがいただくということだと思う。
自然な流れではあるし仕方ないことだけど
「いただきます」の意味が今は違う。
私が以前、自分の食事の考えをお話ししたら
私のだいすきな鎌田安里紗さんが、四角大輔さんの言葉を教えてくれた。
釣りをする四角さんは
大きい魚は釣るとき、捌くときに
より集中力やエネルギーを使う。
自分で食事をするときはなるべく小さい魚をいただくようにしてるそう。
安里紗さんが教えてくれた言葉で、
この言葉がストンと私の中で腑に落ちた。
自分で殺せるものをいただく。
それは地球に住む生き物が行なっているごく当たり前で、自然なこと。
必要以上に採らないし、獲らない。
みんな殺して、分解できるものを食べている。
自然の摂理ってそういうことだと思う。
人間も動物=地球に住まわせてもらっている生き物。
人間が、ではなくて"自分が"殺せる生き物をみんながいただくようになったら、
たくさんの動物を殺さなくてもいいし、
必要な分、量、頻度でいただける。
もちろん今の社会の中でいきなり自給自足を、なんて無理な話で
毎日の食事の中で少しずつ、たまには無理して(多少の無理も必要)
食事を考えていく、変えていく。
だから私もお肉を食べることもこれからあると思うし
体が必要だと感じたらいただくつもり。
捌いているところも実際に見たい。
動物を殺せない人なら食べるべきではないし、
べきとは言い過ぎかもしれないけどたまに食べるで十分。
お魚もたまには食べたいから、釣りに行ったり
なるべく小さい魚を食べるようにお店で選択したい。
野菜は地域の野菜を、有機栽培のものを。
ママがやっている家庭菜園を私も将来家でやりたい。
(私が昔書いていたInstagramより)
ヴィーガンとかベジタリアンとかそういう分け方にとらわれず、
自分の身体に入れるものを考えてみることが一番大切だと思う。
環境のためにっていうとなんだかエゴに見られがちだけれど
結局、自分の身体のためを考えることは環境のために繋がっていく、自然に。
そして必ず自分にトリートしている分、自分に返ってくる。
ストイックになりすぎても逆効果。
心地よくいられる場所を見つけながら、続けていくことが大切だと思う。
うまくまとめる言葉が難しいのですが
これからもうまくバランスをとりながら、
食べものを育てここまで運んできてくれる人、
自分の身体に感謝と愛を込めて食べものをいただきます。
最後まで見てくれた人がいたらありがとうございます。
love...xx
真実
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?