『兎とよばれた女』part4/本書における神さまと美の定義【えるぶの語り場】
ソ:シュベールに聞きたいのだけど、この作品に出てくる神さまは、どんな神さまだと思う?
例えばだけど俺は、新約・旧約という神で考えたときに、本書に関して言うと新約聖書で語られている慈しみ深い全知全能の神さまのイメージは全くないんだよね。
兎を必要としてしまっているからね。
ほら、一神教の神さまって人間を必要としないわけじゃん。
そこで、この神さまのイメージは何に一番近いのだろうか?と思ったわけだよね。
俺的には嫉妬深い旧約聖書の神のイメージが一番しっくりきているのだけ
ど、ヨブ記に出てくるようなサディスティックな神さま(笑)。
そういったところで、シュベールはこの神のイメージをどのように受け止めたのかなと気になった。
シュ:僕もね、最初に読んでいた時に旧約の神さまなのかなと思ったんだよね。地上を水で満たしてしまうような感情豊かな神さまというイメージ。
でも、この作品の時代背景を考えて読むと「父のイメージ」なのかなと思ったりした。いわゆる「昭和の頑固おやじ」なのかなと。
「右と言ったら左でも右だし、カラスが白と言ったら黒でも白」そういうイメージ。
神にしては、人間臭すぎる。でも絶対的であるというところを考えると亭主関白な昭和の頑固おやじだと思ったんだよね。
ソ:なるほどな。昭和のおやじは絶対的だもんね。
シュ:うん、ある意味で絶対的なんだよ。でも兎が何かを考える隙を与えるぐらいには不完全ではある。
ソ:俺はあくまでも神というところから離れられなかったので、人間的な神というとギリシャ神話的なのかなとも思ったりしていた。
シュ:ギリシャ神話の神もしっくりくるかもしれない。少なくても新約聖書の神さまではないよね。
僕は日本神話とかよくわからないからコメントが難しいけれど、日本神話を探せばしっくりくる神さまがいるかもしれない。
ソ:確かに。日本神話はあるかもしれないね。
シュ:うん。実際に兎が出てくる「因幡の白兎」という有名な日本神話もあるわけだし。でも、矢川は西洋かぶれしているから何が正解なのかはわからないね。
あとは、どうですか?和歌の部分なんかはソフィーなら意識して読んだと思うのだけど。
ソ:万葉集の和歌が出てきたよね。
これはメタ的なところで面白いと感じたの。
この歌の意味は、「貝殻の中に真珠が隠されているけれど、別にそれを人に知られなくても良い」という歌じゃないですか。
で、なぜこれがメタ的な問題なのかというと、言葉の問題を考えたときにすごく矛盾するわけですよ。
言葉というのは、それを受け止めてくれる人がいて成り立つものなのに「誰にも知られなくても良いよ」と言葉にしてしまっている時点で「誰かに知ってほしい」と思ってしまっている訳だよ。そうするとこの歌そのものが矛盾している。
恐らく、兎と神さまも関係を白玉になぞらえているのだと思うのだけど、でもそれを本にしている時点で言葉の受け取り手がいる前提なわけで、そこがメタ的な部分ですごく矛盾してしまうわけですよ。
別に矛盾を否定しているわけではなくてね、言葉の面白さだなと思う。
シュ:なるほど。歌を入れたことで言葉のパラドックスが顕在化させている。矢川はそういうの上手だよね。
他はどうですか?
ソ:あともう一つは「美」の問題だよね。p63の最後の段落かな。
「美しいものにあやかろう」とするものは何かなと考えたときにプラトンの「饗宴」に出てくるエロスを思い出したんだ。
「自分に欠けている美への欲求」のことであり、自らに美を欠いている以上、エロスそのものは美しいものではないとソクラテスは「饗宴」で語っている。
兎というのは地上にいるんだよね。つまり、美を欠いている存在なわけだよ。
で、その兎は「美しいものがないと生きてはいけません!」と美を渇望している。
それでp22で出てきた「生身の重さを持たない状態」というのは、エロスのから到達できるさらに上の状態アガペーにたどり着きたい、ということなのかなと思ったりした。
シュ:すごい腑に落ちたわ。今日一番面白かった。
ソ:俺もね、これは「そうじゃないのか」という確信がある(笑)
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