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第一回 哲学の勉強会ふりかえり 勉強会と向き合う 2024/09/01週

諸々準備をしてきて開催した第一回 哲学の勉強会のふりかえり。
前回の記事では課題本(ルソー『社会契約論』第四篇)の内容と個人的な記憶を結びつけてみて、本で扱っている内容を個人的な文脈の上で再考するということをしてみた。それで一緒に勉強会をしている同僚に「何か途中から日記みたいになってましたね」と言われた。まあ日記っちゃ日記だと思う。とはいえ、やってみて本を読んでいたときには気づかなかったルソーの主張に対して気づいたことを自分の記憶から引っ張り出せたのはよかった。

それをざっと言うとすれば、集団には経験経由でしか得られないコミットメントの具体的なかたちがある、ということだと思う。ルソーが伝えようとしている一般意志は理念(?)のレベルにあるだろうから、まあそのほうがいいよね、と思う。それについて私は特に何も言うことがない。

とはいえ、仮にある集団に(理念が実現されるような)理想的な慣習があったとしても、その慣習が体得されるための学習プロセスをなしにはできないし、コミットメントの具体的なかたちは何かしらの学習プロセスを経て生成することになる。
そして学習は常にそのメンバーが現実を生きている当の文脈からしか発生しない。(そこから発生した"慣習"はそこで元のものと同一だといえるだろうか。それは既存の規範から逸脱するところがないものに留まり続けるだろうか。)
だとすれば、理念が実現されるまでの時間を私たちはどう過ごしていけばいいのか、という別のメタレベルが必要になってくる。(勉強会の中では、やっぱり教育が、というのが話題にあがった。たしかにそれは教育がそのプロセスにどういうメタレベルを設定できるか、という話でもあるだろう。)

今回自分が勉強会(という複数人での営み)をはじめた中で感じていたことにもそれに似たようなところがあった、というのがこの記事で扱いたいことになる。

この勉強会でははじめるときに自分なりに以下のようなテーマを設定していた。

  • 自分たちが勉強会でやりたいことってどんなことなんだっけ?というのをなるべく言葉にして対話する。

  • チームとして、互いにコミュニケーションをとりながら学習プロセスをサポートしあう。

この内容自体はわるくないことだと今でも思っている。でも、これはルソーが設定したような理念の話だということは、やってみないとよくわからないことだった。

これまでに参加してきた勉強会で私は、課題本の決め方ってもっとうまくできないかな、とか、内容がよくわからないときに会とどう向き合えばいいかよくわからないな、とか、わかっている(ように見える)人に頼りがちになっちゃうけどそれは自分の勉強になっているのかな、とか色んなことを感じてきた。

でもそれはあくまで自分がある時にある場で、その時の自分が感じたことでしかない。その体験の時間を言葉にして伝えることはできたとしても、同じ体験を生きてもらうことはできない。その言葉はそれを受け取った人の体験の時間の中で受容されることになる。

準備も含めた会の時間を通じてそういうことを考えるようになった。
うまくいかないなら諦めればいい?
これは自分がやりたいと思っていたことでしかない?

だとしたら自分はどう会に向き合えばいいんだろう。

ああそうか、と思った。自分がこれまでの人生で一番勉強に時間を費やしてきた人がこれについて書いているじゃないかと。
偶然を待ち構えるってこういうことか、と。

考えてみれば昔からそういうことが苦手だった。うまくいくかわからないことが不安で手を動かさない人間だったと思う。偶然に左右されることなんてはじめからやらないほうがいい。自分にとって、本を読むことや勉強することは臆病さと向き合わないための方便になっていた部分もあると思う。(だから手放しに本が好きということはできない)
そういう自分に少しずつ、びびってんじゃねーよと言えるようになった。

あらためて勉強会を一緒にやっているメンバーに感謝を伝えたい。
あとドゥルーズにも。

少しずつでも自分なりに考えをすすめて行きたいと思っています。 サポートしていただいたら他の方をサポートすると思います。