散歩の充実感はいつ感じ取られるか
先日書いた記事では、散歩のことをひととおりは書いておいて、後で自分が参照できるものにしたいと思っていたものの、途中で面倒になって書けなかったことをメモしておきたい。
こないだの記事では散歩がどんな要素で構成されているか、という外見の定義を適当にしつつ、散歩にはそれと異なる次元として、要素ー印象の継起というメタレベルがあるんだよ、更にそのメタレベルが散歩の充実感と関わりがあるんだよ、ということを書いてみた。
さて、ここで書いてないものは何か。
それは、
いつその充実感は感じ取られるか
という散歩のプロセスにおいての具体的なタイミングである。
前の記事で書いたのは、あくまで散歩が終わった後に、あー、今日の散歩はいまいちだったな、とか、なかなか楽しかったな、という振り返りで感じる充実感のことで、それはある楽曲を好きというのに似ている。(しばしばそれは曲名や、アーティスト名のもとでいわれる。換喩。)
でもある楽曲が好きというときに、その気持ちを生み出すに至ったところの、曲を聴く中で感じた楽しさの感覚のことに触れないわけにはいかないというのが、このいつその充実感は感じ取られるかということになる。
ある日の散歩の中のある特定のシーケンスーフレーズが心地よい、楽しいと感じること。それが今日の散歩は良かった、と振り返るときのその換喩可能性の基底をなしている。
このシーケンスーフレーズという言葉はたしか昨日か一昨日に散歩している最中に思い出された。でもロラン・バルトはあるシーケンスがプロセスの中で強い印象として感じ取られるのは何故か、ということは書いていただろうか。覚えてないな。。
というわけで、今日は散歩におけるシーケンスの具体的な例と、その成立要件みたいなものを書いておきたい。
シーケンスの具体例の説明には、前の記事で適当な散歩の描写をでっちあげたので、まずそれを引用する。
下手な文章で気がひけるものの、面倒さが上回って再度の登場。
と、引用して読み返してあらためて気づいたことだけど、どこからどこまでがあるシーケンスを構成しているのか、ということが析出しづらい。
引用する前は、例えば陽の光による路面の明るい印象が、スニーカーを週末にきれいにしたいと思わせるところまではシーケンスになっていると思っていたけど、住宅地の路地の若干の暗さの体感がなければそうならなかっただろう。
だとしたら、文章の冒頭から週末に…、と思う箇所までをひとつのシーケンスと扱ってよいかといえば、自分の直感的には違っている気がする。
散歩中に意識をしめている印象には、確かにそれがカット的に切り替わっている体感があり、その後あらわれた印象がその前の印象と連関することがあるという体感もあるけど、それがどこからどこまででブロックをなすかは主観的にしか扱えないものかもしれない。
どうやら、散歩でいつその充実感は感じ取られるかの問題を考えるためにはシーケンスとは別の考え方が必要とされているらしい。。
さあどうしよう。
ということで、サイバネティクス、パターンあたりに書くための突破口があるかもしれないことを期待して勉強をしようと思う。(一応シーケンスの本もパラパラする。うろ覚え。)
読んでいただいた方に何かしらまとまった結論を伝えられないで多少の申し訳なさを感じつつ、この記事はお終い。
ではでは