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学習と情動 2024/08/11週

『人はいかに学ぶのか』Chapter2の情動と学習の関わりについて述べた箇所に、こんな記述がある。

文字通り、情動を含めずに情報について深く考えたり、記憶したりすることは神経生物学的に不可能だ。なぜなら、健康な脳は個人にとって重要でない情報を処理するためにエネルギーを浪費しないからだ(Immordino-Yang, 2015)情動は、学習者が学習中に目標を設定するのに役立つ。情動は、作業を続けるべきときと止めるべきとき、問題解決のために正しい道を進んでいるときと軌道修正が必要なとき、覚えておくべきことと重要でないことを伝える。

PP.37-38

学習といわれるような変化が個体に起こるときには、何かしら気持ちの動きが伴う。だから気持ちの動きが感じ取られないようなときは、学習は発生していないと考えられるだろう、と。

個人的には(情動を理性の内的な基準として用いるという)スピノザを思い出させるこの箇所を読んで、いろいろと発想を展開させることができそうに思えた。

例えば難しかったり、読みづらい本を頑張って勉強しているときに、段々気持ちがくさくさしてきて、何だってこんなことをしているんだろう、という気分になることがあると思うんだけど、まさにその出口のない感じは自分に学習が発生していないということを判断するときの目安になる。

これはネガティブなパターンなわけだけど、そんなときにじゃあさっさとそんな勉強するのはやめた方がいいというのはさびしいので、何かやり様があるのかというのを考えてみたい。

大事なポイントは、要は気持ちが動けばいいんでしょ、ということで、自分の気持ちが動くときのパターンを色々と考えてみようよ、ということになるんだと思う。

もちろん学習内容がそのあとの行為の拡張につながる(できることが増えたぞー!)というのはとてもシンプルだし、自律的。完璧。

でもそうすると、抽象的だったりある種のモデルを扱っていたり、そもそも何の話をしているんだろう、という内容を扱ったものは、その先(そのモデルを扱って何するの?)が何となくでもイメージできていないと学習を発生させるのが難しい、ハードルが高い、ということになってしまう。

いやいや、ややこいことも勉強したいんだよ、俺らは。
それがわかるようになった先に今よりちょっといい感じの自分がいるんじゃないかと思うとちょっと楽しいじゃん、という自分やそういうモチベーションをもった人に向けて考えを整理するのが今回の記事の主旨。

話を戻して、一つの例として"行為の拡張"ということの解釈を少しだけ拡げてみる。
できることが増える、というのはある種のスキルに結びつきがちだけど、これをかなり緩く設定することもできるだろう、ということ。

シンプルに「何でもいいから人に話せるようにすればいい」というのが暫定的な自分の考えで、伝える内容は「よくわからん」や「つまらん」でもいいし、自分が単なる妄想じゃないかと思うようなことでもいい。
そこには勉強に取り組んで、わからない、つまらない、自分の独りよがりな考えかもしれない、と感じていることを少なくとも人に伝えられた、という行為の拡張がある。

ただそれには、この人に話せば何かしらリアクションはしてくれるだろう、自分の言ったことをとりあえずはただ聞いてくれるだろう、と自分で思えるような人たちとの関係が条件になってくる。

そういった人たちと関係が構築されること、深まっていくことや関わりのパターンが増えることは、学習の発生要件となっている情動が発生する機会を増やすことに繋がる。(スピノザが言っているように、人間である限り人間にとって一番意味深いのは人間だろうから。)

自分の中にいつも自分の話を楽しがって聞いてくれるいる人をつくれたら、ややこしいこともこれ話したらどんなこと話してくれるかな、と思って勉強できるでしょ、というのが少なくも自分の実感ではあるということで。(細かいことを言えば具体的に実在する人でなくてもいいんだろうけど、それはまた別の機会に)

あと、それじゃあ内容の理解自体は得られないんじゃないの?というのもあるかもしれないけど、そうとも言い切れなくて、わからない、と人に伝えるからにはどこの何がわからない、ということは考えるわけで、そこでミニマムな学習は起こることになる。

少しずつでも自分なりに考えをすすめて行きたいと思っています。 サポートしていただいたら他の方をサポートすると思います。