書くことで見えるものは変えられるか
習慣の散歩を充実させる、これは自分がnoteを使っていく中で、それを続けさせてくれるつっかえ棒のひとつになればと思っている。書きながら散歩が楽しくなって、散歩しながら考えたことを書ければ、散歩の習慣に書くことを考えるという習慣がくっつくという意味で、散歩は少し充実すると言えるかもしれない。
さて、散歩しながら書くことを考えるという思いつきがあって、それをどうすれば続けていくことができるだろうか。
日常の散歩は、仕事だったり、家事だったりの合間ですることになるから、私にとって歩ける範囲は時間にして1時間程度のものがせいぜいである。その時どきでぼんやり考えていることは自然と同じにはならないが、代わり映えのない道を歩く中で、見えている景色、眺めのことで書くことに変化はつけられない。のか。むしろ後者の変化は、元々そうしたいところの散歩の充実により繋がると期待できるかもしれない。
(ようやく書きたいことの前段が書けたけど、もう力尽きそう)
見ることと書くことの関係に変化をあたえるということを考えたときに、それに関わるものとして私が思いつくものに若林奮という彫刻家の書いた『I.W: 若林奮ノート』という本がある。
疲れてしまったし、これ以降の時間に頭を動かし続けると眠りづらくなるので今日はこれがどんな本か、冒頭の文章を少し引用して終わり。
この本に書かれていることを読みながら、(私はこれから旧石器時代のことを考えながら散歩しますというわけではなく、)私はある自分の位置、それが地面に立っているところの周囲の地形とさまざまの物、そこに付着する何かしらの想像力、それらを複合しながら直線的な文章にするときの順序、そういうことを考えさせられる。
書くことで見えるものは変えられるか。
続きの記事
少しずつでも自分なりに考えをすすめて行きたいと思っています。 サポートしていただいたら他の方をサポートすると思います。