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健やかなご近所づきあい 七緒栞菜
私は精神的に豊かであると思えるつながりを取り戻したい。
家の近くの川沿いをパートナーと散歩していたら、近所のおばちゃんに遭遇した。私の祖母の親友。昔から仲のいい大切な近所のおばちゃん。
いつものように挨拶をすると、
「栞菜ちゃん、けんちん汁は飲むかい?」
とおばちゃんは言う。
「うん、飲む飲む!」
「じゃあ、散歩が終わったらうちに鍋もって来な!」
散歩を終えて、2人で鍋をひとつずつ持ち、いそいそとおばちゃんの家へ向かう。ひとつは空の鍋、もうひとつは前日のカレーが入ったおすそ分け返し用の鍋だ。(まさか鍋を抱えて近所を闊歩する時が来るなんて思ってもいなかった。嬉しい。)
「おばちゃーん!来たよー!」
リビングの大きな窓から、おばちゃんを呼ぶ。
「あがってあがって。」
大きな窓から、私たちはお邪魔する。
前日におばちゃんの家に来たお孫ちゃんたちのためにたんまりとごちそうを作っていたようで、「一人で食べたらおばちゃんは何日食べ続けるの?」というくらいの量のけんちん汁があった。他にも、おばちゃんの手料理がたくさん。
鍋を手渡し、おすそ分けしてもらう。
「天ぷらも食べるかい?切り干しもあるよ。プリンも持っていきな。」
ということで、その日の夕ご飯をまるまるいただいたような、おすそ分けをもらった。
お返しにするには少なすぎるけれど、
「おばちゃん、カレー食べる?」
とうちから持参したもうひとつの鍋を差し出した。すると、
「おばちゃんはね、カレーってのはイマイチ好きじゃないんだよ。食べても、年に1回かそこらだね。若者は気を使っちゃいけないの。おとなしくもらっておけばいいの!」
とそのまま返された。なんだか、断られたのに嬉しかった。いやなものをいやと言ってくれる関係性があるということが、嬉しかった。
今の社会は、誰かを大切にするということが、距離を置くことや放っておくことと一緒になっているような気がする。相手を傷つけないようにするために、そもそも関わることを諦めているように思える。だけど私は、つながりを諦めたくないと思っている。ご近所さんのお仕事を知らないとか、お子さんの名前を知らないとか、ちょっとおかしいんじゃないだろうか。意図的な孤立が意図せぬ分断を生んで、その分断が思わぬ形で孤立を助長するという悪循環になりはしないか。
私は近所のおばちゃんと正直に(いやなことはいやと言ってくれるくらいに!)話したいし、子どもとわちゃわちゃしたい。それが健康的な関係性であると思う。現代の(そもそも存在しない)ご近所づきあいは、不健康である。
私は精神的に豊かであると思えるつながりを取り戻したい。健やかなご近所づきあいを緩やかに育みたい。