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「適当」な料理 七緒栞菜

久しぶりにレシピを見ながら料理を作った。
今日の夕ご飯はキーマカレー。

①たまねぎを2つとにんじんを1/2本をみじん切りにして透明になるまで炒める。
②ひき肉を300gとにんにく・しょうがを小さじ1/2加えて炒める。
③好みのスパイスとトマト缶1/2缶を加えて弱火で5分。
④ルウを加えてさらに弱火で5分。
⑤お皿に盛り、温泉卵をのせて完成。

 この量は6人前。決して私は大家族ではない。いつかの楽のために、1回で大量のカレーを作るのだ。作る量を増やせば作るための時間も増えるが、今日の分をよそい、明日の朝の分のカレーチーズトーストを作っても、まだ4食分も冷凍できると思うと、カレーをジップロックに詰めながら、ふふふとなる。

 半分残っていたカレールウをどうにか使いたくて、今日はレシピを使って作った。甘口のルウだったからか、味見をしたらなんだかもの足りなくて、レシピの他に結局自分でカレー粉やスパイス、コンソメなどを足した。次回作るなら、ルウを使わずに作りたいと思う。

料理を作る際、普段私はレシピを見ない。
名前のない料理を作る。
その日の冷蔵庫の中身と相談するのだ。

①冷凍された3種類のお肉から、まずその日の気分でお肉を選ぶ。
②次に野菜室を見て、「このお肉を使うならこれかな?」と組み合わせる。
③「きっとこの組み合わせならこの調味料が合うだろう」という感覚で味付けを決めていく。

幸い同居人から料理は好評で、それなりにおいしいご飯は作れているようだ。

 昔は、レシピを見ないと料理なんか作れないと思っていた。高校生くらいまで、母にどのように料理を作るか聞いても「調味料の量なんか適当だよ、適当。」と毎回返ってきて、理解に苦しんでいた。でも、いざ自分で料理を日々作るようになったら、母の言っていたことがわかってきた。本当に、「適当」なのだ。私の「きっとこれがおいしい」と思う調味料の種類と量が、「適当」なのだ。

さあ、本日の夕ご飯。見た目はカフェで出てくるようなキーマカレー。
ご飯を土手にして、真ん中にキーマカレーの海。そしてその上に温泉卵。
我ながらうまくできた。

でも、なんだかこれは私のつくったものではないように思える。
料理をつくったのではなく、料理が出てきた感じ。

 レシピを使って料理を作ると、料理をするために考えることや感じることがシャットアウトされるような気がする。料理をするためにレシピがあるのに、おかしな話だけれど。

 最近読んだ本の中で土井善晴先生が「料理はきれいやと思った瞬間が、おいしいですねん」(うろ覚え)とおっしゃっていて、ものすごく納得した。家庭料理のおいしさってそういうものだよなと。おいしそうだと五感で感じられる瞬間瞬間を自分自身で作り出せたことの喜びを感じられるのが料理の楽しさであり、それがまた食べたときのおいしさにつながっている気がする。それがあらゆる人に通用するおいしさではなくても、自分自身の満足度というか、なんというか、そういうおいしさが上乗せされる気がしている。幼い子どもが、苦手な野菜でも自分でその野菜を使って料理を作ったら食べてしまう、なんてことが起きるのは、一種そういうことだと思う。自分が料理をつくることに対して関与している度合いで、おいしさが変動することはあるんじゃないだろうか。

 たまにはレシピを使って料理の基礎やコツを学びながらも、それは感覚で作る家庭料理に活かすための材料にする、くらいのつもりでいたい。料理本で学ぶのは、レシピそのものではなく料理の仕方。レシピという材料を使って、あくまでも私自身で料理を楽しむのだ、という余白をもっていたい。

 今日のレシピ「カフェ風キーマカレー」もおいしかったけれど、今度はなんとなく、「適当に適当なキーマカレー」を作ってみたい。


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