マインドフルネスのほんとうの効能
こんなことを言うと怒られるかもしれないが、最近ようやく、「ヨガをやってる自分が好きな私」から、「ヨガが好きな私」に変わってきた。
ヨガや瞑想を始める前、ある種の恐怖心があった。その正体は、せっかく自分を愛するための「真の善行」に出会ったのに、それすら継続しなくなるのではないかという、自分に対しての疑心と恐れだった。
残念なことにそれは的中し、自分が卑屈になったり忙しくなったりすると、日々のヨガはただの「形式」になり、習慣ですらなくなっていく。そういう場合はマインドフルになれる感覚も、当然ない。そしてだんだんと、自らその行いと距離をおくようになる。「今の自分は、そんな崇高なことできません」と。
こうなるともういろいろずれているのだが、悲しいかな、私の生来のパターンであった。
けれどもヨガや瞑想のすごさは、こうなってからなのである。
ちょっと愚痴っぽくなっているくらいのときには気づけなかったのだが、真に打ちひしがれたとき、周りに一人も味方がいないと思えるぐらい孤独で辛いとき、私の肩をそっと抱いてくれたのが、マインドフルネスだったのである。
マインドフルネスヨガを行うことは、筋肉の動きや骨間にある髄の感覚、自分の体温がじわじわ上昇していくこと、息が出たり入ったりしていることを具に観察することである。
さらに瞑想を通じて、自分を苛んでいる思考や感情をいったん認める。そして、手放していくのだ。悪いことばかりではない。時に良きことも、「執着心」となって自分を苦しめることがある。これらすべてを、ゆっくりゆっくりと手放していく。
こうしていると、自分の「今」はたしかにそこにあり、自分のもつあらゆる感覚、感性は誰にも侵されるものではないのだと気づくことができる。裏切られる心配はない。他人に批評や判断をされて落ち込んでも、一番の理解者はここにいる。「あなたは間違ってないよ。」と言ってくれる味方がちゃんといるんだと教えてくれるのだ。
そう、「わたし」という味方が。
ヨガや瞑想においては、まだまだ修行の身。そもそも冒頭で述べたような、好きとか嫌いとかいう感覚すら、とても的外れなのだろう。
けれども私はうれしい。続かなくたって、また始めればいいんだと気づけた。どんな目に遭っても、自分を信じて守ってくれる存在がいることも。疑心や恐怖は、もうここにはない。