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終わりの幸福、あるいは祝福

 未曽有の疫病が世を席巻してしばらく経つ。町のひなびたステージでまばらな客を前に日がな一日笑顔を振りまいていたはずの垢ぬけないそいつは、瞬く間にスターダムを駆け上がっていった。今や武道館も満員御礼の超売れっ子。それどころか摩天楼のごとき高級マンションのペントハウスで悠々自適かつ傍若無人な富豪生活、といったところである。おかげでひとびとは生活の改変を余儀なくされ、もとよりたいして生きやすくもない世の中を、さらに息を詰めてやり過ごさなければならなくなった。終わりは見えない。もはやなにが終わりなのかすら、誰にもわからなかった。

 とかなんとか書くと鼻につくコラムみたいな感じになっておもしろい。いったいなんの話なんだろうか。たぶんなんの話でもない。こういう意味のないものをだらだら書くのはたのしい。まるで意味がないからだ。頭のなかに流れる言葉の羅列を無責任に指先から垂れ流すだけの作業は、実際これっぽっちも実のあることを言ってはいないのに、なにかすごいことを言っているみたいな気にさせてくれて気分が良い。

 下手すりゃ死に至る病に付随する不自由には本当に迷惑しているけれど、それによりもたらされた退屈によってこういったふうに楽しみを思い出したのは皮肉な話だ。ひとはいつも忙しすぎるんだろうな。まあ、それにしたって退屈が過ぎるが。この連綿と続く退屈さは、眠る前の、静けさのあまり自分の呼吸音が煩わしくなる感覚に似ている。気がする。


ゴドーは待たれながら

 というお芝居を観た。いとうせいこう氏が書かれた戯曲を、ケラさんが演出した2013年上演のほうを。名前の通りベケットのゴドーを待ちながらを下敷きにした一人芝居で、原作ではウラディミールとエストラゴンがゴドーを待っているのに対し、こちらは『待たれている男』の苦悩や絶望にフォーカスした不条理演劇だ。

 この公演の頃のことを、わたしはよく覚えている。

 上演されることを知ったのは大学一年のころだった。当時新井浩文さんが大好きで、その新井さんが赤堀雅秋氏の舞台に出るっていうんで、ツイッターかなんかで一生懸命情報収集をしていたんである。スマホの液晶を雑になぞっているときに目に入ったのが『ゴドーは待たれながら』だった。確かそのころ、わたしはゴドーを待ちながらを大学の授業かなにかで観たばかりで、それがえらくおもしろかったんで余計に惹かれるものがあった。しかも念願かなって上演が決まった、大倉さんのひとり芝居ときている。舞台業界もイチオシだったようで、公演のお知らせを方々で見かける毎日だった。

 これはどうしたもんかね、と行くかどうかを考えあぐねているうちに、赤堀さんの舞台の公演がやってきて、わたしはそれに打ちのめされ、まんまと『ゴドーは待たれながら』を見逃した。結局見られなかったんである。今思えば、あれだけ観劇のチャンスを目の当たりにしておいてなんてもったいないことを、という感じだけれど、当時はそれどころじゃあなかった。わたしはつくづく演劇というものとの相性が悪いらしく、余計なものまで受け取りすぎてしばらく使い物にならなくなる節があった。ゴドーの公演はわたしが見に行った舞台のすぐ後に始まり、ポンコツを極めている間に東京公演が終わっていた。

 時は流れて2021年。それも先日。しばらく芝居はおろか映画からすらも身を離していた期間を挟み、ようやく、ようやく鑑賞することができた。個人的にはほとんど因縁(作品には何の罪もない)といった感じで、演劇にも映画にも触れていないあいだも、『ゴドーは待たれながら』はわたしのなかにずっとしこりのように残り続けて、後悔はたびたび沸き起こっていた。生で見るのと映像で見るのとじゃあそりゃあ天と地ほどの差があるとはいえ、過去の自分のやらかしをようやく(ある程度)精算できるチャンスが舞い込んできたんである。

 もうほんとうに、「えらいものを見てしまったな」という思いに尽きる。これを作ったひとびと、さらに再演しようと思ったひとびとの気合いには平服するほかないけれど、それ以上に大倉さんの役者としてのセンスにはおぞましさすら感じるほどだった。いやわたしは役者さんのことなぞこれっぽっちもわからないのでとやかく言える立場ではないが、しかしだ。そのうえで。素人目に見ても。だってあんな、1時間45分も舞台の上でひとりきり、延々としゃべり動き続けるなんて正気の沙汰ではない。そりゃあ10年も嫌だと言い続けるよな、と納得できる。嫌だといったのかは知らないが。

 大倉さんはたびたび、インタビューやなんかで役者としての自分について「才能は感じない」とか「できることならやりたくない」なんて言ってみせるけれど、その言葉たちが謙遜あるいはパフォーマンスだったとしても、そう思っているひとがあんなことをやってのけているのを見てしまうと本当に落ち込む。あなたほどのひとにそんなこと言われちゃっちゃ、わたしなんて生きる才能すらないよ、とさえ思う。というか、若干二十歳のわたしがこれを目の当たりにしていたらたぶん、そう思っただろう。ひとひとり簡単に絶望させられるような、圧倒的なお芝居だった。いまはまあ、ほどよく大人なので、あきらめたり続けたりすることの取捨選択が多少はうまくなったから、そこまで絶望せず上手に距離をとることができたのかもしれない。そう考えると、今見てよかったんだな。にしたって少し落ち込んだんだけれど。

 しかし奇しくも、昨今の情勢に重なるようなお話だった。殺風景な部屋のなかでひとり、行くか行かぬか押し問答をしながら一向に表へ出ることができない、まるでとらわれているかのような様はいまのわたしたちと似ている。ごちゃごちゃと能書きを垂れてみたり、誰かに待たれていたいと切に願ったりする外界への欲求には親近感を覚えた。なにかを打ち出してはうまくいかず、それを引っ込めてはまた頭を抱える。何がどうなっているかももはやわからないし、何をどうしたらよいのかも知らない。それでもどこかへ『行か』なければならない気がしてじたばたすることに、みんなきっと覚えがあるんじゃないだろうか。

 今こそ見るべき芝居だ、なんてサムいことを言うつもりはないけれど、今にうんざりしているというひとはきっと見たらいい。なにせ不条理というのは『高度の滑稽』であり『ばかげた』もののことを言うらしい。鬱屈とした毎日を鼻で笑うだけの元気は貰えるかもしれない。またいずれ「行こう」と思う日のために。


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