さよならだけがロマンスだ!
※文中でタナダユキ監督の小説、及び映画【ロマンス】の内容について深く触れております。未鑑賞、また鑑賞予定の方につきましてはご留意のほどよろしくお願いいたします。
タナダユキ著【ロマンス】を読んだのでロマンスについて考えることにしました。映画の原作だ、と思い手に取りましたがどうもそうではないらしく、出版時期は映画の公開とほぼ同時。こういう本っていったいなんて言うんでしょうか。う~ん。ともあれ、映画の「手が届かなくてかゆい」を補完してくれ(たような気がし)たので、映画では多く語られなかった“おっさん:桜庭”にフォーカスして好きにあれこれ考えてみました。
ちなみに映画は3度見ました。桜庭が好きすぎるので。
【ロマンス】のあらすじ
毎日たくさんの観光客を乗せて新宿⇔箱根間を往復する特急ロマンスカー。北條鉢子は、ロマンスカーのアテンダント。仕事の成績は常にトップで、その日もつつがなく業務をこなしていたが、ひょんなことから映画プロデューサーを名乗る怪しい中年男客・桜庭に“母親からの手紙”を読まれてしまう。桜庭に背を押され、もう何年も会っていない母親を捜すことになった鉢子。小田原城、箱根登山鉄道、大涌谷、たまご茶屋、足にお子、仙石原、箱根関所……かつて家族で訪れた箱根の景勝地をめぐる“私とおっさん”の小さな旅が始まった――。
(映画特設サイトから引用)
北條鉢子のちぐはぐさが生んだロマンス
普通、『若いおねえちゃん』が仕事中、『変なおっさん』に絡まれたらどうするでしょう。大抵は、周りに助けを求めるか、警察を呼ぶんじゃないでしょうか。ところが鉢子はそのどちらをすることもなく、桜庭に腕をひかれるまま“母を捜す旅”にでます。ほとんどヒモの恋人は金の無心をするばかりだし、苦手な母親から突然の手紙をよこすしでむしゃくしゃしていたとはいえ、20代も半ばを過ぎた女性がするにはあまりにも軽率な行動なんじゃない?なんて思うでしょうが、個人的にはなんとなく共感できるんですよね。だって判断を他人に任せているのは楽ですから。あとから叱責されたって、「だってあの人が」って自分に言い訳ができる。乱暴な流れに身を任せていれば、ぼんやりしていたってどこかにたどり着くもんです。それが意図しないところなら相手に文句を言えばいい、そういう無責任な気楽さがあります。むしゃくしゃしているときは余計に、判断が鈍ります。というか、「どうでもいいや~」になってしまいがち。そういうときに嵐みたいな強引さにさらされたら、きっとわたしも仕事中だろうが終電間際だろうが、腕をひくひとの手を振り払いはしないと思います。
社内で表彰されるほどの『デキる女:北條鉢子』には実は危うい部分がある。そういうちぐはぐさが、桜庭とのロマンスを生んだのだろうなと思うわけです。
桜庭洋一が仕掛けたロマンス
桜庭は不躾にも、鉢子がごみ箱に捨てた手紙を拾って読むことで彼女との関係を続けようとします。もうすでにこの辺りで、彼は鉢子を自分の逃避行に巻き込む気だったんじゃないかと思います。自らの人生をコイントスで決めるような男ですから、多少いい加減でも「様子が変だったから」を理由にして押し通すのは造作もないことでしょう。たまたま手紙の内容が母親からの意味深な内容だったのは、ほとんどラッキー。手紙の内容がどうであれ、適当な作り話で鉢子に関わる気満々だったでしょう。事業に失敗し警察にまで追われる桜庭はヤケを起こしてロマンスカーに乗り込んだわけですし、そんななか、たかが200円の万引きで他人に任せるでもなく全速力で男を、ひとり追ってきた女の子なんてもはや運命的ですらあります。映画プロデューサーの桜庭が、この好機を見逃すとは思えません。
【蛇足】
ところで、桜庭が鉢子の押す車内販売のワゴンからスナック菓子を万引きすることで二人は出会いますが、映画を見ていてずっと気になっていたのは『なんで桜庭はわざわざ左手で盗ったのか』ということ。劇中桜庭は、進行方向左手の通路側の席に座っており、もし本当に気付かれずにものを盗るなら右手を使うのが無難だったと思うんです。左手首に腕時計を巻いているのを見るあたり、利き手も右手だったでしょう。ではどうしてわざわざ身体をひねって、利き手じゃない方の手で万引きしたんでしょうか。小説のなかに右手左手の言及はなく、あくまで映画内の演出を見たうえでの見解なのでことの真意は定かではないのですが、わたしには桜庭が、鉢子に気が付いてほしいように見えました。だとすると彼はすでに、どういった理由かで彼女と関わろうとしていたことになります。ただこの時点で桜庭は、鉢子が母親からの手紙に苛立っていることを知る由もありませんから、鉢子をターゲットにした理由が説明できません…。後々明かされる桜庭の境遇から推察するに、自ら出頭する勇気はないから問題行動を起こして捕まろうした?とも考えられますが、じゃあなんで逃げるのよ、と疑問は湧き出るばかり。タナダ監督、そこんとこどうなんでしょう。
桜庭洋一の『ほんの些細な選択』について
ふたりの旅は桜庭の「ほんの些細な選択で、二度と会えなくなる人ってのが、世の中にはいるんだよ」という言葉で始まります。桜庭は鉢子に母親捜しをさせる口実として使うわけですが、おそらくこれは自分に言い聞かせているんでしょう。
というのも彼、きっとセンスはある男なのです。これは決して演者が大倉さんだからだとかわたしがおっさん好きだからだとかのひいき目ではなく、作中のふるまいにも表れています。
例えば
本当は『プリティ・ウーマン』と言おうとした桜庭だったが、寸前で、あれは主人公が娼婦だったことを思い出し、『プリティ・ウーマン』の元になった『マイ・フェア・レディ』と咄嗟に言い換えたのである。
という記述。さらに
桜庭の選んだ服はそれぞれが喧嘩することなく、上手くコーディネートされていた。
といった部分。
映画のプロデューサーにどういった力が必要なのかはわかりませんが、少なくともこれくらいの頭の回転とその人間に合ったものを瞬発的に繕える才能があれば、これほどまでに落ちぶれることは無いんじゃないでしょうか。(甘い?)大成はしないまでも、少なくとも落伍者になることもなかったでしょう。
ではなぜ桜庭はここまでどうしようもないおっさんなのか。それはまさに桜庭の言う『ほんの些細な選択』によるところだと思います。おそらく彼は致命的なまでに、それこそ人生がめちゃめちゃになってしまうほどに運の無い男なんでしょう。自分でが良かれと思って選択したことが、ことごとく裏目に出てしまうような。ここにきて運の話かよ、って感じですが、こう思うのには理由があります。桜庭は東京で、自宅の玄関前で怒鳴る出資者と、およそ堅気には見えないその連れ合いを目の当たりにし、自分に逮捕状が出ていることを知ります。
桜庭の中で何かが弾けた。くるりと向きを変えると、コンビニでもらったお釣りの100円玉をポケットから取り出す。親指に乗せ、コイントスをした。数字の方が出た。そして駅に向かった。
とあるように、桜庭はここで初めて、自分の行く末をコイントスで決めることにしました。結局彼はコインの表と裏を勘違いしロマンスカーに乗ることにした訳ですが、だからこそ鉢子と出会いこの逃避行が叶ったのです。少なくとも彼の散々な人生において、鉢子との出会いは悪いものではなかったでしょうし、『この現実を忘れたかった』という願いは成就しました。選択をコインに委ねた途端、彼はわずかながら良い方向へ向かうことができた、ということになります。つまり、彼自身に相当運がなかった、と思うのです。
ふたりだけのロマンス
鉢子と桜庭はこの旅で、恋愛とも友情とも違う関係をはぐくみながら互いの『ダメさ』を肯定し合うところへ行き着きました。ちぐはぐなひとりぼっち同士が、ラブホテルの大きな部屋のなか小さく体を寄せ合う様子は、容赦ない現実のなか地に足をつけて立つために支え合うようにも見えます。知らない人間と傷舐めあえるの?と言えばそれまでですが、彼らに必要だったのは互いをちっとも知らない人間だったのかもしれません。
翌日、目を覚ました彼らは『いい日旅立ち』を口ずさみながら帰路につきます。新宿駅でなんとなく離れがたくなりつつも、連絡先も聞かず、『またね』という言葉も使わず、もう二度と出会わないことを確信しながらふたりは別れました。凄い覚悟だと思いませんか?たった一日であれ、自分のダメさを肯定しあえる人間を果たして手放せるでしょうか。ずるずる後ろ髪惹かれて、ずっとふたりで逃げていた方がきっと楽しいのに、違う道を歩いていくことを、その道が決して交わらないことを話し合うわけでもなく互いに理解しているのです。
ロマンスとは結局、なんなのでしょう。この小説・映画の両方を通して思ったのは『ふたり』ということ。安直に人数が二人というわけではなく、ひとりとひとりが寄り添ったふたり。よりプライベートで、名前や共感を求めないもの、じゃないでしょうか。鉢子と桜庭もきっと、明確なものを欲してふたりの旅を誰かに話すことはないように思います。自分自身のなかでひっそりと、忘れたり思い出したりする記憶になるんでしょう。
桜庭洋一の行く先
鉢子が主人公のこの物語は、自身が課した母親という呪縛を受け入れることで前を向く彼女の笑顔で幕を引きますが、では現実に放り出された桜庭はいったいどうなっていくのでしょう。
映画では、交番の前にたたずみ出頭を試みるも、タイミングを逃したことを理由に通り過ぎ歩いてゆく背中が小さくなるまで移されるカットで物語を退場しました。良くも悪くも鑑賞者に答えをゆだねる終わり方で、わたし的には桜庭の情けなさを残したまま去らせたのは現実的で良いなと思いましたし、比較的明るいエンドだったのではないでしょうか。これまでどうしようもなかった人間が本当に正しい道へ戻るのにはきっともっと沢山の時間が必要でしょう。それを踏まえて“一旦”桜庭の物語はあそこで終わったのだ、というのを感じました。
いっぽう小説では、桜庭の救いようのない情けなさがより明確に書き込まれ、前を向き進んでゆく決意をした鉢子との対比があまりに痛々しいのです。
新宿駅で鉢子と別れた桜庭はひとり、雑踏のなかで途端に自分のふがいなさや後にも先にも引けない状況に思いを巡らせ不安に飲まれます。そこで彼が思い出すのは、他でもない鉢子なのです。
桜庭はたまらず振り返り、鉢子の姿を探した。一杯だけでいいから、コーヒー付き合ってよ。そう伝えたかった。
読んでいてこの文章が目に入ったとき、正直震えました。たった二行の文章のなかに、これまで描かれてきた桜庭洋一という人間のすべてが集約されていると思ったのです。もう二度と会えないとわかっていてもなお、二十近くも年が離れた女の子にすがろうとしてしまう中年男のなんと哀れなこと。しかも、一杯のコーヒーというささやかな時間に込められた切実さ。これが桜庭のぜんぶなんだと思うと、悲しくてたまりませんでした。
このあと桜庭は、箱根で買った妻と娘の名前キーホルダーの存在を思い出すことで再び歩き出すし、映画と同じく退場していくのですが、先の文章のパンチが強すぎてとても同じような最後に受け取ることができません。だからこそ、前向きな印象の映画では削られたのかもしれませんね。
個人的な嗜好と感想
これまでいろいろと喋ってきた【ロマンス】ですが、お察しの通りめちゃくちゃに好きなタイプの物語です。歳の差ものに目がないので、ストーリーがどうのと言う前におじさんと女の子がランデブーしているだけでありがたい。ただよく見てよく読むと、これだけさまざま考える部分があるのだなあと思うと、やはり素敵な作品だと思います。
正直なことを言うと、桜庭が雑踏のなか鉢子を求めて振り返るシーンは加えてほしかったです。小説を読みながら、どーしてこれ映画に入れてくれなかったの、と泣きながら唸るほど。
ガード下交差点の真ん中で振り返って、鉢子ちゃんだけがいない人ごみに向かって
「コーヒー付き合ってよ。一杯だけでいいからさ」
って泣きそうな顔で呟いたあと、自嘲気味に笑って頭をポリポリ掻きながらまた歩き出す大倉さん、どう考えたって見たすぎるでしょう。見たすぎるでしょうよ。
映画の雰囲気を考えて削られたんでしょうが、やはりそこだけが残念な感じです。
ともあれ、ずいぶん久しぶりにメモ書きをして読むほど入り込んだ作品でした。慣れない電子書籍で読んだので、えらい目が滑ったのには驚きでしたが。これを読んでくれた皆様に、どうか良いロマンスがありますように!
本文章は2015年公開タナダユキ監督映画【ロマンス】と、同年刊行の書きおろし電子書籍をもとに作成されています。
また、引用した文章はすべて書き下ろし電子書籍版【ロマンス】によります。