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ともかく、もう、盗まれるものなんか何もないのだから。
2023年1月10日(火)
その金は彼女の最後の金だったし、これから彼女はひとりで自分の家まで歩かなければならなかったが、そんなことはどうでもよかった。
積もった雪は、白い海の白い波のようだった。
彼女は、その上を、風と月の潮に運ばれて歩いていった。でも星を見るたびに願うことはただ、もうひとつの別の星を見せて欲しいということだけ。
それに、ほんとうにもう怖くなんかない、と彼女は思った。
男の子がふたり、バーから出てきて、彼女をじろじろ見た。ずっと昔、どこかの公園で見かけたふたりの男の子と同じ人間かもしれない。ほんとうにもう何も怖くない。あとをつけてくる彼らの雪を踏む音を聞きながら、彼女はそう思った。
ともかく、もう、盗まれるものなんか何もないのだから。
長時間の残業の帰り道はカポーティの小説の一節と、シモーヌ・ヴェイユ『工場日記』を思い出す。
ともかく、もう、仕事終わりの私にできることなんか何もないのだから。
21時59分、井の頭線にて。